に早く屈托もなく、すらすらとやって退《の》ける。それから編み物が旨《うま》い。チクチク針を運ぶ手などは見ても面白いようでした。また月琴《げっきん》が旨い(その頃はまだ月琴などいうものが廃《すた》っていませんでした)。すべてこういった調子に相当折り紙つきの黒人《くろうと》でした。また何をさせても一通りに出来ました。
 しかし、こういう人の癖として、ずば抜けてはいないのでした。万能《ばんのう》的なのは一心がかたまらぬせいか、心が籠《こも》らないせいか、傑出するには足りなかった。それを見ると、不器用の一心がかえって芸道のことには上達の見込みがあるか。とにかく、米原雲海氏などとは違った畑の人であって、貫徹《つらぬ》いては出来ない側の類です。滝川氏はまた特に写真が上手であったが、私の宅にいる間、私や他の弟子たちが写真機などをいじっていても、写真の写の字もいいませんでした。私宅を出る際、初めて自分は写真をもって本職として世に立つ考えで、写真は多年苦心をしたものであると打ち明けました。この話を聞いた時に私はそのたしなみ[#「たしなみ」に傍点]のえらいのに感心しました。後日この人が写真師となって私の写真を取ったのが今も残っております。

 こういう風の性格の人であったから無理ならぬことですが、とかく商売気が旺《さか》んであって、じっと落ち附いて一向専念に彫り物をするなどいうことは性には合わなかったと見えます。写真をもって世に立つ考え故、今日でいえば浅沼《あさぬま》の向うでも張る気で大仕掛けに台紙などを売り出したりして大儲《おおもう》けをしたり、また損もしたりしました。それになかなかの雄弁家で、手も八|丁《ちょう》口も八丁とはこの人のことでありましょう。私の手元の門人控え帳の連名を見ますと、おおよそ六十幾人の名が並んでいるが、この滝川氏の如く多芸な人はありません。

 それから、やはり谷中時代の人で、今日は銅像製作で知名の人となっている、本山白雲氏があります。氏は土佐の人、同郷出身の顕官|岩村通俊《いわむらみちとし》氏の書生をしていて、親を大切にして青年には珍しい人で美術学校入学の目的で私の宅へ参って弟子になりたいということで、内弟子となっていました。後に学校に這入りました。今日でも氏は能く昔のことを忘れず、熱さ寒さ盆暮には必ず挨拶にきてくれます。今では銅像専門の立派な技術を持った人
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