の家に置くとあっては、何か私が蔭で操《あやつ》ったように思われるのも嫌ですから、双方理解の後ならばということにして、話が分った後に改めて家に置くことにしました。美雲は、もはや、ほとんど一人前となっているので、仕事をさせても間に合いますから、多少小遣いを与え、私が第二の師匠となって仕込みました。徴兵のがれのために西巻を冒し、林が西巻となったのでした(その後元の林に復す)。美雲の父は鎧師《よろいし》で、明珍《みょうちん》の末孫《ばっそん》とかいうことで、明珍何宗とか名乗っていて、名家の系統を引いただけに名人肌の人でした。美雲もこうした家の生まれだけあって、仕事は上手で、若さも若し、小刀は能く切れ、仕上げなど綺麗なもので、今日でも、この人位仕上げの美事な腕の人は余り多くはあるまいと思います。作風は、やはり仏師育ちですが、私に就《つ》いてから、置き物風のものをも研究しましたが、仏様に関した方のものがやはり得意でした。後に私の紹介で美術学校の助教授となりましたが、明治四十五年七月二十九日五十一歳病気で歿したのは惜しいことをしました。遺作としては大きさ二尺位の文殊《もんじゅ》の像がありましたけれども、学校の火事の時焼失しました。
それから、美雲の弟で竹中重吉(光重と号す)も、兄が来てから間もなく来ました。兄弟の父は今申す鎧師、その頃は鎧師などいう職業はほとんど頽《すた》っていましたし、それに世渡りの才は疎《うと》い人で、家は至って貧乏でした。それで私も出来得るだけ美雲に対しては心づけていましたが、或る日、美雲の父の家を訪ねて見ますと、暗い室の中に、年頃の青年が甚《ひど》く弱って隅《すみ》の方に坐っております。どうしたのかと聞くと、これは重吉といって、美雲の弟で、花川戸の鼻緒屋《はなおや》に奉公しているものであるが、病気にて帰っているのだということです。私は気の毒に思い、話し掛けると、ぼんやり坐っていた青年は私に挨拶《あいさつ》をしていうには、
「私は、今、父の申し上げました通り、鼻緒屋に奉公しておりますのですが、どうも皮を扱うことは性に合いませんか、あの臭気《におい》を嗅《か》ぎますと、身体《からだ》が痩《や》せるように思いますので、とうとう身体を悪くしてしまって、帰って来ております」という話。それは気の毒なこと、人間は、性に合わない職業をするほど損なことはない。何か、身に合う仕事はないものかなど私はいいますと、重吉は、「あの臭気《におい》を嗅がない仕事なら何んでもします。もう二度と花川戸へ帰る気もしません」といっている。その容子《ようす》はいかにも愍然《びんぜん》でありました。
「では、私の家へ来てはどうかね」
といいますと、本人は大いによろこび、「どうか、そういうことに願えますなら何よりのことですが、私は兄貴のように年季を入れて彫り物の稽古をしたわけでもありませんから……」と心細がりますが、「何、これからでも、励めば一人前にはなれよう。しかし、花川戸の方をよく片をつけてから、来るようにしたがよかろう」といって帰りました。それで重吉は間もなく私の内弟子となったのでありました。
重吉は後に光重といって一人前になってから、妻を娶《めと》りましたが、この妻女は当時仲御徒町に住まっていた洋画の先生で川上|冬崖《とうがい》氏の孫娘《まご》でした(川上未亡人の家作に美雲の親が住んでいたので、その知り合いから、娘を美雲の弟の重吉にもらったのです。で、冬崖氏の孫の川上邦世氏とは義理の兄弟になるはずです)。
以上の四人は私の西町時代の困難盛りの時の弟子で最も古い人でありました。
この重吉は今は竹中光重といいます。誠に正直|一途《いちず》の人で、或る日、本郷|春日町《かすがちょう》停留場の近所で金を拾い直ぐさま派出所へ届け、落とし主も解りその内より何分《いくら》か礼金を出した所、本人は何といっても請け取らないので、先方《むこう》の人もその意《こころ》ざしに感心して観音の彫刻を依頼されました。その後も種々頼まれたそうです。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年4月30日作成
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