へ行けば不動さまも仕合せ。命日々々には私の所や君の処よりも、平尾さんの処の方が御馳走《ごちそう》もあろう。ただ、我々が借りたい時は借りる条件をつけて置けば好いでしょう」
で、後藤君は、快く不動さまを平尾氏に譲ったのでした。
この時に私の事が平尾さんの話頭に上り、高村という人物について後藤君からも聞き、また他からも聴いたことであったと思います。これが縁で……といってまだ逢ったこともないが、後藤君を通して、平尾氏から大黒《だいこく》と蛭子《えびす》の面を彫ってくれと頼まれて、こしらえてあげたことなどがあり、それ以来、近しいともなく近しく思って私のことを心配してくれられていたものと見えます。私の方では一向|他《ひと》の気は分りませんから、知らずにいたが、その後、後藤さんを通して、私のために家を持たしてやろうと考えるまでに平尾氏の好意が進んで来たのは、平尾氏の技術家を尊重する心持も手伝ったことでありましょうが、私の考えでは後藤君がかつて私が氏に対してした仕打ちを恩義的に感じていて、私のことを平尾氏に特に推奨したような心持もあったのではないかと推察もされるのであります。
それはとにかく、また、平尾氏の奥さんという人もなかなかよく出来た人で、平尾氏が人のために尽くすことに関しては、良人《おっと》の善事を内で助けて行った質《たち》の人でありました。私は今日でも、平尾氏の好意は特に恩に思っている次第であります。
それから、家持ちになれというので、平尾氏から立て代えて頂いた金銭は、技芸員のお手当の金や、いろいろのその他の収入のあった都度、二年間ばかり平尾氏の方へ運びました。二年目の終りの頃に平尾氏は、
「もう、よほど、金が来過ぎている」
ということで、
「では、おついでの時に調べて置いて下さい」
といって置きましたが、調べた結果、大分《だいぶ》余っていました。平尾氏は、
「私は商人のことだから、銀行へ預けて置くだけの利子は貰いますよ」
といって一旦利子をお取りになって勘定を済ませ、やがて日を変えて改まって利子の分五十余円を持って来て、これはお老人《としより》が何かの楽しみになさるようにいって差し上げて下さいと、老人に下されたので、年寄《としより》も非常な喜びでありました。
ちょうど二ヶ年間に七百十五円の地所と家作代、それから百五十円の隠居建築費、合せて八百六十五円をお返ししましたが、都合の好い時に自儘《じまま》に運んだので、私には、そう骨の折れたことではありませんでした。けれども、妙なもので、一時に纏まったものを出して強いても私を家持ちにさせて下すった平尾氏の御親切がなければ、私はその後幾年経っても借家|住居《ずまい》でいたかも知れません。家持ちになってから今日まで三十年にもなりますか。その間《あいだ》私の家は段々古くなって建て直しをする必要も感じましたが、さらに新築をする自力もないことではあるけれども、それよりもなるべく、三十年前の家持ちになった当時の家の儘《まま》を存して置きたいと思い、破損のひどい所だけは余儀なく修繕をして出来得る限り昔日の俤《おもかげ》を残して置いてあります。
只今こうしてお話をしているこの九畳の座敷も、その時そのままで、初めて、石川光明氏と打ちつれ盆栽会を見物に来た時も、この部屋《へや》や縁側に盆栽が沢山並んでいました。
今日から思えば三十年はかなり古く、また私としても、それ以来いろいろな境涯を経来《へきた》ったことであります。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年4月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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