幕末維新懐古談
初めて家持ちとなったはなし
高村光雲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)小町水《こまちすい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その頃|馬喰町《ばくろうちょう》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おひま[#「ひま」に傍点]
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 ここでまた話が八重になりますが、……その頃|馬喰町《ばくろうちょう》の小町水《こまちすい》の本舗の主人に平尾賛平氏という人がありました。
 今日《こんにち》の平尾家はその頃よりも一層盛大で、今の当主は二代であるが、先代の賛平氏時代も相当な資産家で化粧品をやっていました。この平尾氏が、どういう心持であったか、私のことを大変心配をしてくれているということであった。私の方ではさっぱりそういうことは知りませんでしたが、私とは関係の浅からぬ後藤貞行君を通じて右の趣を承知したのであった。
 後藤君のいうには、
「平尾さんが、あなたのことを大変気に掛けていられる。娘を亡くして気を落としたりしたあげく、残暑の酷《きび》しい中の野天で、強い仕事をしたりして暮らしていてはさぞ大変なことだろう。それに、もう、あの人も相当年輩、世間的の地位も立派にあるのに、今日といえども、まだ微々たる借家|住居《ずまい》をしているようでは気の毒だ。あの分では何時《いつ》までたっても自分の家持ちになることは出来まい。どうかまず家持ちにして上げたい。何事も居所が確《しっ》かり定まってのことだから……とこういってあなたのことを心配していられます。平尾さんの気では一日も早くあなたに一軒の家を持たせたいという望みなのですよ。あなたはどう思いますか。一つ考えて見て下さい」
ということ。しかし、まだその頃は、私も平尾氏の噂《うわさ》こそは後藤君からちっとは聞いているようなものの、まだ一面識もないことで、先方《むこう》がどういう気でそういうことをいっておられるのか見当も附かず……多分、私が永年の間に多少とも貯蓄などをしていて、いくらか土台が出来ているだろうからその上へ幾分のたし前でもして補助して、そうして一軒の家持ちにでもして上げたいというような心持か、御好意は忝《かたじけな》いが、今日まで何事も自力一方でやって来た自分、まあ、自分は自分の力をたよりにするにしくはないと、別に乗る気もなしそのままになっていました。
 すると、また後藤君が見え、
「高村さん。平尾さんの、あなたに対する力の入れ方は本当に真剣の話です。串戯《じょうだん》ではないのですよ。この間もあなたに話した家持ちにしたいという一件……あれを是非実行したいといわれるのです。無論あなたは学校の勤務もあり、家《うち》では差し迫った仕事のある身で御多忙なのは平尾さんも万々《ばんばん》承知。ですからあなたに面倒は少しも掛けず、何事も平尾さんの手でやってしまうというのです。どうですか。折角これまでに尽くしてくれるのですから、あなたも承知なすったら、どうでしょう。今日は私は平尾さんの意を受けてあなたの御返辞を確《しっ》かり承りに来ました」
 こういう話。私はこうなると、何事も打ち明け話をしなければ理が分らぬと思いましたから、
「平尾さんのお志は感謝しますが、実は、私も貧乏の中で娘を亡くし、いろいろ物入りもして、今日の処少しの貯《たくわ》えもありません。仮りに家をこしらえてくれる人があったとして、引っ越しをする金もありません。……といったような有様ですから、ちょっとお話しに乗る気もしませんが、今のお話によると、すべての事を平尾さんが一切引き受けて下さるというおつもりのようだが、そんなことまでも引き受けてやって下さるのでしょうか」
「そんな細々《こまごま》したことまで、私は平尾さんから聞きませんでしたが、一切、高村さんには面倒をかけず、万事を自分の方でする。高村さんはただ、身体だけを新しい家へ持ち運べば好いのだというのですから、無論何もかも一切|背負《しょ》う気でお出《い》ででしょう。それは承知の上のことでしょう」
「そうですか。そういうことならお世話になっても好《い》い気がします」
「では御承知下さいますね。平尾さんもさぞ張り合いがあるでしょう」
といって後藤君は帰りました。
 しかし、私は平尾氏の思惑《おもわく》についてもまだ半信半疑でいました。世間によく人の世話をするという人があっても、今のような世話の仕方はほとんど例のないことのように思われますから。
 ところが、平尾さんの方では早速家を探し初めた。
 私には手間を掛けないというので、店の人たち、後藤君などに頼んで私の住居として格好な家を探し始めたのです。無論平尾さんの主意は家と地所と一緒で、地所が自分のものでないということは落ち附きのないことで、地所ぐるみ
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