家で仕事をするにも都合がよく、学校へ通うにはなおさら、昼食に一走り家へ帰ったとしても授業時間には間に合う位近いので、まことに気安くて都合がよかったのでした。老人が、どうしてこんな工合の好《い》い家を見附けたものか、谷中の奥で、しかも通りからは横へ這入った人の気の附きそうもない処を、よく探し出したものと、何時《いつ》もながら老人の眼の届くのを感心して家のものにも話したことでありました。この引っ越しは二十三年であったと思います。

 この谷中時代に総領娘|咲子《さくこ》を亡《な》くしました。亡くなった日は明治二十五年の九月九日でした。まことに残念で、今日でもこればかりはどうも致し方もないことではあるが、残り惜しく思われます。娘は十六歳でありました。すべて子供は皆同じで、いずれに愛情のかわりは御座いませんけれども、この総領娘は私が困苦していた盛りに手塩《てしお》にかけただけに、余計に最愛《いと》しまれるように思われます。
 こういう苦しい時代であったために芸事も多分に仕込むことも出来ませんでしたが、初めは三味線をやらせました。ところがどうもこれはその娘《こ》の器《うつわ》でないかのように私に
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