幕末維新懐古談
総領の娘を亡くした頃のはなし
高村光雲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)遡《さかのぼ》り

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)学校|最寄《もよ》り
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 学校奉職時代の前に少し遡《さかのぼ》り、話し残したことを補充して置きたいと思います。

 学校へ入りましたのは仲御徒町《なかおかちまち》一丁目に住まっていた時のことで、毎日通勤するようになってから、住居《すまい》はなるべく学校へ近い方が便利だと思いました。それにこの御徒町附近一帯は軒並み続きで、雑沓《ざっとう》するので、年寄りや子供には適した処でない。衛生の方からいっても低地で湿気が多く水が非常に悪いので、とうから引っ越したいと思ってはいましたが、そういう訳になかなか参りませんので、よんどころなくそのままになっておりました。しかるに今度学校へ出るようになって、学校へ近い方が便利という必要から、何処か格好な家がないかと気を附けるようになりました。

 こういう時には私の父は、前にも申した通り、至って忠実な人であるから、隠居仕事に学校|最寄《もよ》りの方面を方々と探して歩きました。
 それでもなかなか格好な家が見当らないと見えて幾日か過ぎましたが、或る日、父は、「今日こそ好い家を見附けた」といってその模様を話されるところを聞くと、その家は学校へ三丁位、土地が高燥《こうそう》で、至って閑静で、第一水が良い。いかにも彫刻家の住居《すまい》らしい所という。それは何処ですと聞くと、谷中《やなか》天王寺《てんのうじ》の手前の谷中谷中町三十七という所で、五重塔の方へ行こうとする通りに大きな石屋があるが、その横丁を曲って、石屋の地尻《じじり》で、門構えの家。玄関を這入《はい》ると二畳で、六畳の客間があり居間《いま》が六畳、それに四畳半の小部屋《こべや》が附いている上に、不思議なことには直ぐ部屋続きに八畳敷き位の仕事場とも思われる部屋がある。その部屋は南向きで日当りがよく、お隣りは宝珠院《ほうじゅいん》というお寺の庭に接しているから、充分ゆとりもあり、庭はまたお寺の地所十四、五坪を取り入れてなかなか広く、お稲荷《いなり》さんの祠《ほこら》などあってなかなか異《おつ》だということです。それで家賃はというと、四円……別にお寺へ納める庭の十四、五坪の地代が五十銭、都合四円五十銭、ということです。老人は大変気に入っていられる。
 それで、私もこれは好《い》いと思い、早速行って見ますと、なるほど、これは格好、往来に向いて出格子《でごうし》の窓などがあり、茶屋町の裏町になった横丁だが四方も物静かで、父の申す如く彫刻家が住むにはいかにも誂《あつら》え向きという家ですから、早速話を決めました。
 その頃のことで、別に敷金を取るでもなく、大屋さんへちょっと手土産《てみやげ》をする位で何んの面倒もなく引き移りました。

 さて、段々と住んでいると、どうも普通の素人《しろうと》の住まった家とは趣が異《ちが》う。いきなり、客間があったり仕事部屋があったりする処は妙だと、近所の人に聞いて見ると、これまでは牙彫師の鵜沢柳月《うざわりゅうげつ》という人が住んでいたのだということでした。
 この人は先に彫工会の成り立ちの処で話しました谷中派の方の親方株の牙彫師で、弟子の三、四人も置いてなかなか盛んにやっていた人である。庭のお稲荷さんもその人がこしらえたものということ……それで、妙だと思った仕事場のことなども分りました(この家の持ち主は御徒町の料理店|伊予紋《いよもん》であった)。家で仕事をするにも都合がよく、学校へ通うにはなおさら、昼食に一走り家へ帰ったとしても授業時間には間に合う位近いので、まことに気安くて都合がよかったのでした。老人が、どうしてこんな工合の好《い》い家を見附けたものか、谷中の奥で、しかも通りからは横へ這入った人の気の附きそうもない処を、よく探し出したものと、何時《いつ》もながら老人の眼の届くのを感心して家のものにも話したことでありました。この引っ越しは二十三年であったと思います。

 この谷中時代に総領娘|咲子《さくこ》を亡《な》くしました。亡くなった日は明治二十五年の九月九日でした。まことに残念で、今日でもこればかりはどうも致し方もないことではあるが、残り惜しく思われます。娘は十六歳でありました。すべて子供は皆同じで、いずれに愛情のかわりは御座いませんけれども、この総領娘は私が困苦していた盛りに手塩《てしお》にかけただけに、余計に最愛《いと》しまれるように思われます。
 こういう苦しい時代であったために芸事も多分に仕込むことも出来ませんでしたが、初めは三味線をやらせました。ところがどうもこれはその娘《こ》の器《うつわ》でないかのように私に
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