れはまだ老人というわけでもなく、また、今日まで多少美術のことに力を尽くして来たとはいうものの、まだ歳月も浅し、経験も浅く、功績というほどのことを残したと思うほどのこともない。それにもかかわらず、他の老巧の人々と同じように、われわれ両人が特にこの恩典に浴したことは、実に有難いことで、これを思うても、今後はさらに一層勉強しなければならないと話し合ったことでありました。
そして、また我一己として考えて見ますに、私は難儀な世の中に生まれ、彫刻などいうことは地に墜《お》ちてほとんど社会から見返られなかったにもかかわらず、今日、ゆくりなくもこうした光栄を得たことを思うと、自分の過去が不幸であったに反して甚だ幸運であると存じました。これというのも、当時、年の若いものの中には、石川光明氏とか自分とかをおいては他に相当の人物が見当らなかったためにこの人数《にんず》の中へ加えられたのであろうが、今日にしてこの事のあるということは全く時の力であって、まことに不思議とも思われ、何んと申して好《い》いか、過去のことを振り返ると、感慨無量とも申すべき心持でありました。それで、今日でも思うことでありますが、人間の事はまことに測り知りがたく不仕合わせな時もあり、また時が過ぐればその不仕合わせがかえって幸福ともなる。まことに妙なものであると思うことであります。
それから、今日においても別に何んのお役に立ったこともありませんが、今日も引き続き帝室技芸員として恩典にあずかっているのであります。心ばかりは、何かと斯道《しどう》のために尽くしたいものであると思いおる次第であります。ついでながら今日の帝室技芸員で在京の人々の顔触れをいって置きましょう。明治二十三年に初めてこの名称が出来て以来、欠員があると入り代り立ち代り、いろいろの人が撰抜されまして、今日では確か十五名あると思います。東京に十名京都に五名と思いますが、東京の十名は、日本画では、河合玉堂《かわいぎょくどう》、小堀鞆音《こぼりともと》、下村観山、西洋画では黒田清輝《くろだせいき》、彫刻では私と新海竹太郎《しんかいたけたろう》、刀剣では宮本|包則《かねのり》、蒔絵《まきえ》では白山松哉、写真では小川一真《おがわいっしん》、建築では佐々木岩次郎の諸氏であります。
それから明治二十二年十二月に第三回内国勧業博覧会の審査員を命ぜられました。これも
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