幕末維新懐古談
奈良見物に行ったことのはなし
高村光雲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)船問屋《ふなどいや》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一番|初手《しょて》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)くさ[#「くさ」に傍点]した
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 三月十二日にお雇いを拝命すると、間もなく、岡倉幹事は私に奈良見物をして来てくれということでした。岡倉氏という人はいろいろ深く考えていた人であって、私がまだ今日まで奈良を見たことがないということを知っていたので、私にその方の見学をさせるためであったことと思われます。これは氏の行き届いた所であります。
 私と、結城正明氏とが一緒に行くことになりました(結城氏という人は狩野派の画家でありました)。両人ともに往復十日間の暇を貰いまして、旅費百六十幾円かを給されました。まだ東海道の汽車が全通しない頃でありましたから、私たちは横浜へ出て、船問屋《ふなどいや》の西村から汽船で神戸へ着き、後戻《あともど》りをして奈良へ参り、奈良と京都の二ヶ所について古美術を視察見学したのでありました。私は生まれてから江戸の土地を離れたことがないので、今度こうして長旅をすることになったので、いろいろ旅ということについておかしい話もありますが、それは略するとして、とにかく、今度の旅行は、美術学校の教官として実地見学に出向くのでありますから、学校の正服《ふく》を着けて参らねばならない。これが始末が悪いので閉口しました。

 それから、今日《こんにち》思い出しても、当時の物の安かったことが分りますが、奈良では対山楼といえば一流の旅館ですが、其所《そこ》に泊まって一泊の宿料が四十五銭であった(夜食と朝食附き)。また京都では麩屋《ふや》町の俵屋《たわらや》に泊まった。これは沢文の本家見たいな家で、これも一流の宿屋ですが、その宿料が五十銭であった。ちょっと人力車《くるま》に乗っても、三銭とか五銭とかいう位で、十銭というのはよほど遠道であった。万事がこんな風でありましたから、十日間に百六十余円を使うのは骨が折れましたが、私は旅費として官から給されたものは、全部使ってしまわねばならないものだと思って気ぜわしないことであった。同行の結城氏は物馴れていて、こういう時に旅費は残すものだと話された。

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