教頭という格で生徒がすべてで四十人位であったと思います。科は日本画と木彫《もくちょう》との二科であった。これは日本の在来の美術を保存しまた奨励するという趣旨の下にこの学校が出来たもののように見えました。日本画も木彫も古来から伝統的に日本の美術として立派に存在して来たものであるから、それを今日において、日本国民に普及させ、在来のものを一層発達させようという主意であったものと見えます。当時は普通科が二年と専修科が三年、合せて五年で卒業というのであった。普通科は絵画と木彫と両方をやった。そうして二年目になって、生徒は、絵画なり、木彫なり、自分の志望の科を選んで専修することになっていたので、普通科の二年間に生徒は充分自分の適当と思う道を撰むことも出来たので、今から思うと、この法は大変よかったように思われます。今日でも当時、普通科をやった人たちがよくこの普通科を修めたために、絵をやる方の人でもちょっと小刀が使え、木彫りをやる人の方でも、絵のことが分るというわけで、相当の用が足りるので都合が好いといっておりますが、全くそういう便利があって、これは重宝で好いと思うことであります。
第一期の普通科には、大村西崖《おおむらせいがい》、横山大観《よこやまたいかん》、下村観山《しもむらかんざん》、白井雨山《しらいうざん》、関保之助《せきやすのすけ》、岡本勝元、溝口禎次郎《みぞぐちていじろう》、島田|佳矣《よしなり》、本田佑輔、高屋徳太郎の諸氏でありました。専修科になって、絵の方と木彫りの方とへこの生徒は別れて行ったのであります。教師には狩野芳崖《かのうほうがい》(芳崖先生は私が這入った時には、既に故人となっておりました。氏は美術学校の前身が小石川《こいしかわ》の植物園にあって、まだ美術取調所といった時分から這入っていられたので、その時代は彼のフェノロサ氏が日本美術を鼓吹された時代であります)、橋本|雅邦《がほう》、川端玉章《かわばたぎょくしょう》、狩野|友信《とものぶ》、結城正明《ゆうきまさあき》などいう先生方が絵画の方を受け持たれ、木彫は竹内久一先生、それから私が這入ってその方をやっておった。私は二十二年の五月に本官の辞令を貰いまして教授ということになり、奏任官五等を拝命して、年俸五百円を給されました。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年4月9日作成
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