幕末維新懐古談
大仏の末路のあわれなはなし
高村光雲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)切舞台《きりぶたい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)神田|明神《みょうじん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)もぎり[#「もぎり」に傍点]
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 佐竹の原に途方もない大きな大仏が出来て、切舞台《きりぶたい》で閻魔の踊りがあるという評判で、見物人が来て見ると、果して雲を突くような大仏が立っている。客はまず好奇心を唆《そそ》られてぞろぞろ這入る。――興業主は思う壺という所です。
 大入りの笊の中には一杯で五十人の札《ふだ》が這入っております。十杯で五百人になる。それがとんとんと明いて行くのです。木戸口で木戸番が札を客に渡すと、内裏《うちうら》にもぎり[#「もぎり」に傍点]といって札を取る人がおります。これは興業主で、その札によって正確な入場者の数が分るのであります。初日は何んでも二十杯足らずも笊が明いて、かれこれ千人の入場者がありまして、まず大成功でした。

 ところで、物事はそう旨く行きません。――
 初日の景気が少し続いたかと思うと、早くも六月に這入り、梅雨期となって毎日の雨天で人出がなくなりました。いずれも盛り場は天気次第の物ですから、少し曇っても人は来ない。またこの梅雨が長い。ようやく梅雨《つゆ》が明けると今度は土用で非常な暑さ、毎日の炎天続き、立ち木一本もない野天のことで、たよる蔭《かげ》もなく、とても見物は佐竹原へ向いて来る勇気がありません。ことに漆喰塗りの大仏の胎内は一層の蒸し暑さでありますから、わざわざそういう苦しい中へ這入ってうで[#「うで」に傍点]られる物数寄《ものずき》もないといったような風で、客はがらりと減りました。
 そういう間《ま》の悪い日和《ひより》に出逢《でく》わして、初日から半月位の景気はまるで一時の事、後はお話にもならないような不景気となって、これが七月八月と続きました。もっとも、これは大仏ばかりでなく佐竹原の興業物飲食店一般のことで、どうも何んともしようがありませんでした。
 私は、この容子を見ると、自分の暇潰《ひまつぶ》しにいい出した当人で仕方もないが、どうも、野見さん父子《おやこ》に対して気の毒で、何んとも申し訳のないような次第でありましたが、さりとて、今さら取り返しもつかぬ。しかし、野見さん父子はさっぱりしたもので、これが興業ものにはありがちのことで、一向悔やむには当りません。いずれ、秋口《あきぐち》になって、そろそろ涼風《すずかぜ》の吹く時分一景気附けましょう。といって気には止めませんが、私はじめ、高橋、田中両氏も何んとか景気を輓回《ばんかい》したいものと考えている中に残暑が来て佐竹の原は焼け附く暑さで、見世物どころの騒ぎではなくなりました。
「もっと早く、花の咲いた時分、これが出来上がっていたら、それこそ一月で元手ぐらいは取れたんだが、少し考えが遅蒔《おそまき》だった。惜しいことをした」
など、私たちは愚痴交りに話していますが、野見さんの方は、秋口というもう一つの季節を楽しみにして、ここを踏ん張ろうという肚《はら》もあるのですから、愚痴などは一つもいわず、涼風の吹いて来るのを俟《ま》っておりました。

 楽しみにしていた秋口の時候に掛かって来ました。
 ここらを口切りに再び大仏で一花返り花を咲かそうという時は、もう九月になっており、中の五日となりました。
 この日は本所《ほんじょ》では牛の御前の祭礼、神田《かんだ》日本橋《にほんばし》の目貫《めぬき》の場所は神田|明神《みょうじん》の祭礼でありました(その頃は山王と明神とは年番でありました。多分、その年は神田明神の方の番であったと思います)。それで私は家のものを伴《つ》れてお祭りを見に日本橋の方へ行っておりました。
 午後三時頃、空模様が少しおかしくなって来たので、降らない中にと家に帰りますと、ぽつりぽつりやって来ました。好い時に帰って来たよといってる中に、風が交って雨は小砂利《こじゃり》を打《ぶ》っつけるように恐ろしい勢いで降って来ました。四方《あたり》は真暗になったままで、日は暮れてしまって、夜になると、雨と風とが一緒になって、実に恐ろしい暴風雨《あらし》となりました。その晩一晩荒れに荒れて翌日になってやっと納まりましたが、市中の損害はなかなかで近年|稀《まれ》な大あらしでありました。何処《どこ》の屋根|瓦《がわら》も吹き飛ばされる。塀《へい》が倒れ、寺や神社の大樹が折れなどして大あらしの後の市中は散々の光景で、私宅なども手酷《てきび》しくやられました。が、まず何より心配なのは佐竹の原の大仏のこと、昨夜の大あらしにどうなったことかと、私は起きぬけに佐竹の原へ行って見ますと、驚いたことには大仏の骨はびく[#「びく」に傍点]ともせず立派にしゃんとして立っております。しかし無残にも漆喰は残らず落ちて、衣物《きもの》はすっかり剥《は》がれておりました。私は暫く立って見ていましたが、どうも如何《いかん》ともしがたい。ただ、骨だけがこう頑丈《がんじょう》にびくともせずに残っただけでも感心。左右前後から丸太が突っ張り合って自然にテコでも動かぬような丈夫なものになったと見えます。それに漆喰が剥《と》れて、すべて丸身をもった形で、風の辷《すべ》りがよく、当りが強くなかったためでもありましょうが、この大仏が出来てから間もなく、直ぐ向うの通りに竹葉館という興業ものの常設館が建って、なかなか立派に見えましたが、それが、一たまりもなく押し潰《つぶ》され、吹き飛ばされているから見ますと、大仏は骨だけでもシャンとしていた所は案外だと思って帰ったことでありました。

 この大嵐《おおあらし》は佐竹の原の中のすべてのものを散々な目に逢わせました。
 葭簀張《よしずば》りの小屋など影も形もなくなりました。それがために佐竹の原はたちまちにまた衰微《さび》れてしまって、これから一賑わいという出鼻を敲《たた》かれて二度と起《た》ち上がることの出来ないような有様になり、春頃のどんちゃん賑やかだった景気も一と盛り、この大嵐が元で自滅するよりほかなくなったのでありました。

 大仏は、もう一度塗り上げて、再び蓋を明けて見ましたが、それも骨折り損でありました。二度と起てないように押し潰された佐竹の原は、もう火の消えたようになって、佐竹の原ともいう人がなくなったのでありました。
 しかし、このために、佐竹の原はかえって別の発達をしたことになったのでありました。
 というのは、興業物が消えてなくなると、今度は本当の人家がぽつぽつと建って来たのであります。一軒、二軒と思っている中に、何時《いつ》の間《ま》にか軒が並んで、肉屋の馬|店《みせ》などが皮切りで、色々な下等な飲食店などの店が出来、それから段々開けて来て、とうとう竹町という市街《まち》が出来て、「佐竹ッ原」といった処も原ではなく、繁昌な町並みとなり、今日では佐竹の原といってもどんな処であったか分らぬようになりました。

 若い時は、突飛な考えを起して人様にも迷惑を掛け、また自分も骨折り損。今から考えると夢のようです。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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