と野見さんはいうのです。何も経験、当っても当らなくても、こうなっちゃ、損得をいっていられない。道楽にもやって見たい。儲《もう》かれば重畳《ちょうじょう》……いよいよ取り掛かりましょう、ということになりました。
 それが三月の十五日で、梅若《うめわか》さまの日で、私が雛形を作ってから十日も経つか。話は迅《はや》く、四月八日|釈迦《しゃか》の誕生日には中心になる四本の柱が立って建て前というまでに仕事が運んでいました。最初はまるで串戯《じょうだん》のように話した話が、三週間目には、もう柱が建っている。実に気の早いことでありました。

 さて、カヤ[#「カヤ」に傍点]方の仕事師は人足《にんそく》を使って雛形をたよりに仕事に取り掛かって、大仏の形をやり出したのですが、この仕事について私の考えは、まず雛形を渡して置けば大工と仕事師とで概略《あらまし》出来るであろう。自分は時々見廻り位で済むことだと思っておりました。で、膝を組んだ形、印を結んだ形、肩の丸味の附けよう……それから顔となって来て、顔には大小の輪などを拵えて、外からどんどん木を打《ぶ》つけて……旨く仕事は運んでいることだと思っておりました。
 或る日、私は、どんなことになるかと心配だから仕事の現場へ行って見ると、これはどうも驚いた。まるで滅茶々々なことをやっている。これには実に閉口しました。

 大工や仕事師は、どんなことをしているかというに、まるで仕事師が役に立たない。先には苦もないようなことをいっておったが、実際に臨んでは滅茶々々です。また、兄貴の大工の方も同様でまるでなっていないのです。たとえば、大仏が膝を曲げて安坐をしているその膝頭《ひざがしら》がまるで三角になっている。ちっとも膝頭だという丸味が出来ておりません。印を結んだ手が手だか何んだか、指などは分らない。肩の丸味などはやはり三角で久米《くめ》の平内《へいない》の肩のよう……これには閉口しました。
「これはいけない。こんなことは雛形にない」
と私がいうと、
「どうも、こうずう[#「ずう」に傍点]体《たい》が大きくては見当が附きません」
 仕事師も、大工も途方に暮れているという有様……そこでこのままで、やられた日には衣紋竿《えもんざお》を突っ張ったような大仏が出来ますから、私は仕事師、大工の中へ這入《はい》って一緒に仕事をすることに致しました。
「私のいうようにやってくれ」というので指図《さしず》をした。
 膝や肩の丸味は三角の所へ弓をやって形を作り、印を結んだ手は片面で、四分板《しぶいた》を切り抜いて、細丸太を切って小口《こぐち》から二つ割りにして指の形を作る。鼻の三角も両方から板でせって鼻筋を拵え小鼻は丸太でふくらみをこしらえる……という風に、一々仏の形のきまり[#「きまり」に傍点]を大握《おおつか》みに掴《つか》んで拵えて行かせるのですが、兄貴の大工さんも、差《さ》し金《がね》を持って見込みの仕事をするのなら何んでも出来るが、こんな突飛《とっぴ》な大仕掛けな荒仕事となると一向見当が附きません。仕事師の方も普通の小屋掛けの仕事と違って、大仏の形に型取った一つの建物の骨を作るのですから、当って見ると漠然《ばくぜん》として手が出ません。此所《ここ》をこうといい附けても間に合わないという風で、私は大いに困りましたが困ったあげく、芝居の道具|方《かた》の仕事をやっている或る大工を伴《つ》れて来て、これにやらせて見ますと、なかなか気が利《き》いていて役に立ちます。私はこの大工を先に立てて仕事を急ぎました。

 それで、私はよすどころでなく毎日仕事場へ行かねばならなくなった訳であります。が、毎日高い足場へ上って仕事師、大工たちの中へ這入って仕事をしていますと、なかなかおもしろい。面白半分が手伝って本気で汗水を流して働くようになりました。今日では思いも寄らぬことですが、まだ歳《とし》も若し、気も旺《さか》んであるから、高い足場へ上って、差図《さしず》をしたり、竹と丸太を色々に用いて頤《あご》などの丸味や、胸などのふくらみを拵えておりますと、狭い仕事場で小仏を小刀の先で弄《いじ》っているとはまた格別の相違……青天井の際限もない広大な野天の仕事場で、拵えるものは五丈近い大きなもの、陽気はよし、誰から別段たのまれたということもなく、まあ自分の発意《ほつい》から仲の善《よ》い友達同士が道楽半分にやり出した仕事ですから、別に小言《こごと》の出る心配もなし、晴れた大空へかんかんと金槌《かなづち》の音をさせて荒っぽく仕事をするので、どうも、甚《はなは》だ愉快で、元来、罷《まか》り間違えば自分も大工になるはずであったことなど思い出して独《ひと》りでに笑いたくなるような気持にもなったりしたことでありました。
 段々と仕事の進むにつれて、大仏の頭部になって来ましたが、大仏の例の螺髪《らはつ》になると、ちょっと困りました。俗に金平糖《こんぺいとう》というポツポツの頭髪でありますが、これをどうやって好《い》いか、丸太を使った日には重くなって仕事が栄《は》えず、板ではしようもない。そこで、考えて、神田の亀井町には竹笊《たけざる》を拵える家が並んでおりますから、其所《そこ》へ行って唐人笊《とうじんざる》を幾十個か買い込みました。が、螺髪の大きい部分はそれがちょうどはまりますけれども、額際《ひたいぎわ》とか、揉《も》み上げのようなところは金平糖が小さいので、それは別に頃合《ころあ》いの笊を注文して、頭へ一つ一つ釘《くぎ》で打ち附けて行ったものです。仏さまの頭へ笊を植えるなどは甚だ滑稽《こっけい》でありますが、これならば漆喰の噛《かじ》り附きもよく、案としては名案でありました。
「やあ、大仏様の頭に笊が乗っかった」
などと、群衆は寄ってたかって物珍しくわいわいいっております。突然にこんな大きなものが出来出したので、出来上がらない前から人々は驚いているという有様でありました。

 或る日、私は、遠見《とおみ》からこれを見て、一体どんな容子に見えるものだろうと思いましたので、上野の山へ行って見ました。ちょうど、今の西郷さんのある処が山王山で、其所《そこ》から見渡すと、右へ筋違いにその大仏が見えました。重なり合った町家の屋根からずっと空へ抜けて胸から以上出ております。空へ白い雲が掛かって笊を植えた大きな頭がぬうと聳《そび》えている形は何んというて好《い》いか甚だ不思議なもの……しかし、立派な大仏の形が悠然《ゆうぜん》と空中へ浮いているところは甚だ雄大……これが上塗《うわぬ》りが出来たらさらに見直すであろうと、一層仕事を急いで、どうやら下地《したじ》は出来ましたので、いよいよ、左官与三郎が塗り上げましたが、青銅の味を出すようにという注文でありますから、黒ッぽい銅色に塗り上げると、大空の色とよく調和して、天気の好い時などは一見銅像のようでなかなか立派でありました(この大仏に使った材料は竹と丸太と小舞貫と四分板、それから漆喰だけです)。
「どうも素晴らしいものが出来ましたね。えらいものを拵えたもんですね」
など見物人は空を仰いでびっくりしております。正味は四丈八尺ですが、吹聴《ふいちょう》は五丈八尺という口上、一丈だけさばを読んで奈良の大仏と同格にしてしまいました。そこで口上看板を仮名垣魯文《かながきろぶん》先生に頼み、立派な枠《わく》を附け、花を周囲に飾って高く掲げました。こんな興業物的の方は友達の方が受け持ちでやったのでありました。
 それから、胎内の方は野見の親父《おやじ》さんの受け持ちで、切舞台《きりぶたい》には閻魔《えんま》の踊りを見せようという趣向。そこでまた私は閻魔の顔を拵えさせられるなど自分の仕事をそっち退《の》けにして多忙《いそが》しいことで、エンマの顔は張り子に抜いてぐるぐる目玉を動かすような仕掛けにして、中へ野見の老人が這入って仕草をするという騒ぎ……一方、古物展覧の方も古代な布片《きれ》とか仏像のような何んでも時代が附いて曰《いわ》く因縁のありそうなものを並べ、鳴戸のお弓の涙などと小供《こども》だましでなく、大人でも感服しそうな因縁書などを野見の老人がやって、一切、内外ともに出来上がりまして、いよいよ蓋《ふた》を明けましたのが確か五月の六日……五日の節句という目論見《もくろみ》であったが、間に合わず、六日になったように記憶しております。
 この興業物は「見流しもの」といって、ずっと見て通って、見た客は追い出してしまうので、見世物としては大勢を入れるに都合の好《い》いやり方であります。大仏の頭が三畳敷位の広さで人間が五、六人位は入《はい》れますが、目、口、耳の窓から外を見ると、先の客は後から急《せ》かれて出て行くので、入り交《かわ》り立ち交るという手順で、手ッ取り早く出来ております。蓋が明いた六日の初日には果して大入りでありました。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年2月15日作成
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