幕末維新懐古談
叡覧後の矮鶏のはなし
高村光雲
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)渾然《こんぜん》たる
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)谷中|茶屋町《ちゃやまち》
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さて、展覧会もやがて閉会に近づいた頃、旅先から若井兼三郎氏が帰って来た。
いうまでもなく矮鶏の一件のことは直ぐ同氏の耳に入った。早速、同氏は会場へやって来られた。私はどうも直ぐに若井氏に逢うのが気が引けますから、はずしていると、若井氏は松尾儀助氏に向って何か話していられる。無論、今度の一件であることは分る。そこで、どういう風に松尾儀助が若井氏をいいなだめたかというと、当日同氏が、聖上へ作品を御説明申し上げた時のことをそのまま話したのである。すなわち聖上が右のチャボに御目が留まって、ほしいと仰せ出された時、右の矮鶏を彫刻した高村光雲と、依頼主なる若井兼三郎という者との間の意味合いをお話した。すなわち、かかる傑作の出来た事は、作家当人の丹誠によることもとよりなれども、美術工芸のことは他より奨励援助する厚意があって、依嘱者と作家と両々相俟たなければ、かく渾然《こんぜん》たる作品を得ることは困難でござりますという意味を概略《あらまし》陳述して、若井兼三郎の作家に対する好意を御披露に及んだ所、聖上にも御嘉納《ごかのう》あらせられた旨を松尾氏はありのままに若井氏に物語ったのであった。
「そういう訳でありましたか。それは私も無上の光栄。文句をいう所ではありません。目出たいことであった」とそこは物分りの早い江戸ッ児の若井氏、さらりとしたもので、私に向っても祝意を述べなどされ、この事件は美しく解決されることでありました(松尾氏は御説明を申し上げた時、濤川惣助氏の無線七宝も、フランス人の頼みで、日本に無線七宝がまだ出来ていないということは日本の技術の上の名誉に関するというので、同氏は非常に努力され、またフランス人は費用を惜しまず、作家を援助したことをも申し上げ、共に美術界には奨励の必要ということを奏し上げたとの事を私は承りました)。
かくて、宮内省からは、矮鶏の代価として百円をお下げになった。
協会からそれを若井氏の手に渡した。
すると、四、五日の後、若井氏は突然私の谷中《やなか》の宅に訪ねて来られました(私は、その頃は谷中|茶屋町《ちゃやまち》に転居しておった)。
「今度は、どうもお目出たかった。ともども名誉のことであった。ついては宮内省より百円お下げになったから、此金《これ》を君へ持参した。まあ、赤飯でもたいて祝って下さい」
という言葉。
いつもながら、若井さんの仕打ちには私も一方《ひとかた》ならず感激していますから、
「それは、毎々御志有難うございます。しかし、私は、前既に充分頂いております。此金《これ》はお返しします。もしお祝い下さるお心があったら、私はそういう事は不得手で分りません。あなたが此金《これ》で宣《よろ》しいようになすって下さい」といって押し戻しますと、
「そうですか。宜しい。では、そうしましょう」といって帰られた。
五、六日|経《た》つと、京橋|采女町《うねめちょう》の松尾儀助氏から、幾日何時、拙宅にて夕餐《ゆうさん》を差し上げたく御枉駕《ごおうが》云々という立派な招待状が参りました。
当日、私は出て見ると、松尾邸では大層な饗宴《きょうえん》が開かれていました。主人役は松尾氏と若井氏、お客は協会の会頭および幹部はもとより、審査員の人々が皆来ている。
今夕《こんせき》は、高村光雲氏作が無上の光栄を得られるについての祝宴であると松尾氏|起《た》って一場の趣意|挨拶《あいさつ》を述べられ、私が会頭の次の正客で、盛大な宴会が開かれることであった。
吉原から選り抜きの芸妓が大勢来ていました。余興に松尾氏と若井氏とが得意の一中《いっちゅう》を語ったりして陽気なことでありました。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年2月15日作成
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