幕末維新懐古談
矮鶏の作が計らず展覧会に出品されたいきさつ
高村光雲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)間際《まぎわ》
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 それから、三月一杯掛かって、四月早々仕上げを終る……その前後にまた一つお話しをして置くことが出て来る……

 美術協会の展覧会は、毎年四月に開かれることになっている。ちょうど私の製作を終ろうという間際《まぎわ》にそれが打《ぶ》っ附かったのです。
 協会の方では開会の準備のためにそれぞれ技術家たちへ出品の勧誘などをしていた時であった。
 或る日、役員たちの集まった時に、幹部の方の一人が私に向い「高村さん、今年は君は何をお出しになります」と尋ねましたので、私は、今年は生憎《あいにく》何も出すことが出来ませんと答えました。
 すると、その人は意外なような顔をして、私を視《み》て、
「何も出せないとはどうしたことです。怠《なま》けてはいけないね、君のような若い会員が出品しないなんて困りますね。是非何か出すようにして下さい」というのであった。
 その人の言葉は何んでもないのであったでしょうが、ふと、今いった言葉の中に、「怠けてはいけない」という一語があったので、私の癇《かん》に障《さわ》りました。
 怠けるどころの話か。自分はこの約一年間、一羽の鶏を彫るために散々苦心し、まだそれも全部出来上がったという所までも行っていない。それほど自分は仕事の上に丹誠しているものをつかまえて、怠けてはいかんとは少し人を見そこなったいい分ではないかと私は思いました。
 まだ年も若し、虫のいどころでも悪かったか、何んだか心外なような気がしましたから、私はこう答えたのでした。
「私の出品しませんのは、怠けていて作が出来なかったというのではありません。年に一度の展覧会のことですから、出したいのは山々ですが、出す作がありませんのです。なまけてもいないに出す作がないというと、やはりなまけていたとお思いになるかも知れませんが、私は拠所《よんどころ》ないことで人から頼まれたものをやっているのです」
という話から、行き掛かり上、若井兼三郎氏の依嘱によって矮鶏を彫っていて既に二年越しにわたっていることを私は話し、怠けていないことの証拠を挙げました。
 その席には山本氏、岸氏など幹部の人々がおられましたが、右の話を聞くと、
「それは、どうも、そういう仕事をやっておられたのですか。君が矮鶏を拵えたと聞くと、これはどうも拝見しないわけには行かん。一つその新作を見せて頂こう」
ということになりました。
 私の、証拠を挙げて申し開いた以上、証拠物件を望まれて見せないわけに行きませんから……また私としてもこれらの幹部の識者の批判を受けることは望ましくないことでありませんから、まだ脚の方のつなぎを切ったりしない九分通り出来ている矮鶏の作を次の日の集まりの席へ持って行きました。

 私が人々の前で、風呂敷の中から矮鶏を出して、机の上へ飾って見せました。
「これは面白い」
「こいつは素晴らしい」
などいう声が人々の口から起りました。
 この席上には会頭もおられましたが、
「これはどうも傑作だ」
といって乗り出して見ておられました。
「なるほど、こんな大仕事を君は黙ってやっていたのですか。それを怠けていたなどと仮りにもいった人は失言だね」
など笑っていっていた人もあった。
 とにかく、私の製作はこの席上の人すべてが賞讃しているように私には見えました。
 私は、作の上についての非点を聞きたいつもりであったのに、皆からただほめられて少し気抜けがしたような形でありましたが、しかし、なまけていなかったという言葉の偽《うそ》でないことが分れば、それで私は好《い》いのでしたから、別にいうこともありませんでした。
 すると、幹部の人から、
「どうでしょう。折角これほどに出来たものを今度の展覧会に出品しないで、直ぐに若井の手に渡すのは余り惜しい。一つ出すようにしては頂けませんか」という声が起ると、一同またそれを賛成したものです。
「それは困ります」
 私はそう答えるよりほかありませんでした。ただそういっただけでは承知されないから、若井氏と私との間にこの作をした事情を掻《か》い摘まんで話して、こんな訳ですから、とても出品するわけに行かない旨を述べました。
「若井の方へは会から話をします。これは是非出すことにして下さい」
 こう幹部の方はいっている。
 私はこの作を終って若井氏の手元に届けさえすれば私の役目は済むことで、後は出すとも出さないとも若井氏の随意であることを述べ、私一己の考えとしては、どうしても若井氏に対して出品出来ないことをいい張りました。
 これは、注文者がもし素人《しろうと》の数寄者《すきしゃ》とでもいうのであれば、あるいはそうすることも時宣《じぎ》に依《よ》ってかまわぬことでもあろうが、若井氏は商売人である。商売用のためにこの作を特に私に依嘱したものとすれば、注文主に断わりなしでこれを公衆の前に発表することはどんなにその人の損害となるかも分らぬ。この事をば私は附け加えて出品の出来ない埋由をいったことであった。

 それでも幹部は承知せず、若井氏へ人を遣《や》ったが、ちょうど若井氏は上方《かみがた》へ旅行中で、旅行先の宿所へまで手紙を出して問い合せたが、商用で転々していたものか何んの返事もありませんでした。
 それで私の作を出す出さない件は行き悩んだなりになっており、私は残った仕事を続け脚の方を仕上げていました。
 その内開会の日は来てしまって、常例の通り何時何日《いついくか》には、聖上の行幸があるという日取りまで決まりました。
 すると、或る日、幹事から私を呼びに来ました。
 出て見ると、幹部の人のいうには、
「高村さん、あなたも御承知の通り、いよいよ明後日は聖上の行幸ということになりました。ついては本会の光栄として、特に天覧に供するものがなくてはならないのですが、それについて、いろいろ協議の結果、濤川惣助《なみかわそうすけ》氏の無線七宝《むせんしっぽう》の花瓶《かびん》と、あなたの作の矮鶏とを出品中の主《おも》なるものとして陳列することに決議しましたから、どうかお作を出すことにして下さい。これは会場へ陳列するとはいうものの天覧に供し奉るのでありますから、公衆の前に発表するでなくただ上《かみ》御一人《ごいちにん》の御覧に供するだけで御還御《ごかんぎょ》の後は直ちにお引き取りになって下さい。右は幹部一同から特にあなたにお頼みします。それで若井の方のことは会で責任を負いますから少しもあなたに御心配はかけません」
とのいい渡しであった。
 これには私も大いに困りましたが、どうもこうなっては前説を固守するわけに行かず、ともかくも会へ一任する旨を答えて帰りました。
 明日は私は自作を午前の中に会場へ持って行かねばならないことになった。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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