時宣《じぎ》に依《よ》ってかまわぬことでもあろうが、若井氏は商売人である。商売用のためにこの作を特に私に依嘱したものとすれば、注文主に断わりなしでこれを公衆の前に発表することはどんなにその人の損害となるかも分らぬ。この事をば私は附け加えて出品の出来ない埋由をいったことであった。

 それでも幹部は承知せず、若井氏へ人を遣《や》ったが、ちょうど若井氏は上方《かみがた》へ旅行中で、旅行先の宿所へまで手紙を出して問い合せたが、商用で転々していたものか何んの返事もありませんでした。
 それで私の作を出す出さない件は行き悩んだなりになっており、私は残った仕事を続け脚の方を仕上げていました。
 その内開会の日は来てしまって、常例の通り何時何日《いついくか》には、聖上の行幸があるという日取りまで決まりました。
 すると、或る日、幹事から私を呼びに来ました。
 出て見ると、幹部の人のいうには、
「高村さん、あなたも御承知の通り、いよいよ明後日は聖上の行幸ということになりました。ついては本会の光栄として、特に天覧に供するものがなくてはならないのですが、それについて、いろいろ協議の結果、濤川惣助《なみかわそうすけ》氏の無線七宝《むせんしっぽう》の花瓶《かびん》と、あなたの作の矮鶏とを出品中の主《おも》なるものとして陳列することに決議しましたから、どうかお作を出すことにして下さい。これは会場へ陳列するとはいうものの天覧に供し奉るのでありますから、公衆の前に発表するでなくただ上《かみ》御一人《ごいちにん》の御覧に供するだけで御還御《ごかんぎょ》の後は直ちにお引き取りになって下さい。右は幹部一同から特にあなたにお頼みします。それで若井の方のことは会で責任を負いますから少しもあなたに御心配はかけません」
とのいい渡しであった。
 これには私も大いに困りましたが、どうもこうなっては前説を固守するわけに行かず、ともかくも会へ一任する旨を答えて帰りました。
 明日は私は自作を午前の中に会場へ持って行かねばならないことになった。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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