れが低いほど、また体《からだ》が小さいほど好いものとなっています。小さいのは南京《ナンキン》チャボとか地※[#「てへん+(「縻」の「糸」に代えて「手」)」、298−3]《じす》りとかいって脚も嘴《くちばし》も眼も黄色です。これはチャボの化けたようなものでしょう」
など講釈するものもあって、十中の十まで右の鶏を本当のチャボといいません。私も半月ほどいろいろ鶏の批評を聞きながら、その姿や動作を見ていたことですが、右のようなわけで少し不安心になりました。
それで、今度は普通のチャボの、つまり背《せい》の低い方のを探したいと思い、御成街道《おなりかいどう》の錺屋《かざりや》に好いのがいるという話を聞いたので、また出掛けて行きました。
御成街道のどの辺であったか今日|能《よ》く記憶しませんが、訪ねて行ってその錺屋の主人にチャボを見せてもらいました。が、これは今の南京チャボとか地※[#「てへん+(「縻」の「糸」に代えて「手」)」、298−11]りとかいう方のものでしょう、小ぢんまりした可愛らしいいかにも矮鶏らしいチャボですから、また、事情を話して借りたい旨を申し込んだ。すると、この人は工人だけに分りが早い。御同様に仕事のことでは苦労します。これでよければ持って行って御覧なさいといって快く貸してくれました。
そこでこの方の鶏も庭に飼って、前のと両方、別々の掩《ふ》せ籠《かご》に入れて置いた。
そうしますと、来る人ごとに錺屋の方のチャボを見て、これこそチャボだといって賛成しますが、植木さんの方のは依然として反対します。私もどっちをどうと判断に苦しんでいる処へ、例の後藤さんが見えた。
で、早速、先日の礼をいい、植木さんから貰って来た鶏を見せますと、何んだか不得心らしい顔をしている。実はこれこれと例の受け売りをやって見ましても、後藤氏は腑に落ちた様子がない。で錺屋の方を見せると、
「これは好い、これはどう見てもチャボです」と首肯《うなず》いているので私も案外、狆の時とは違って、立派に見える方が落第ということにまずなった。
つまり、私は、十目の見る所、世間に通用する矮鶏をチャボのモデルとする方に考えが決まりましたのです。毎度このモデル問題では大真面目《おおまじめ》でありながら滑稽《こっけい》に近い話などが湧《わ》いて、家のものなども大笑いをしたことが度々《たびたび》ありました。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年2月15日作成
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