幕末維新懐古談
好き狆のモデルを得たはなし
高村光雲
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)御側《おそば》御用
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)数等|上手《うわて》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)つまっ[#「つまっ」に傍点]て
−−
合田氏のはなしを聞けば、なるほど耳寄りな話である。
合田氏は、私の今使っているモデルの狆を口ではそれと悪くはいわないが、この狆よりも数等|上手《うわて》の狆がいることを話された。それはツイ先月の話のことだが、合田氏の知人に、徳川家の御側《おそば》御用を勤められた戸川という方があって、その御隠居が可愛がった一匹の狆があった。それはなかなかの名狆であるのだが、戸川家も世が世で微禄され、御隠居も東京を引き上げ、郡部へ引っ込むについて狆を田舎まで伴《つ》れて行くのも大儀|故《ゆえ》、何処《どこ》か好い貰い手があれば呈《あ》げたいものというので、合田氏へも話しがあったが、合田氏も狆を飼って見る気もないので話はそれ切りになってしまったのである。今少し早かったら、注文通りのお手本があったのに惜しいことをしたという話である。
「どうも、これはあなたが残念がるよりも私は一層残念なことに思いますが、もうその狆は何処かへくれてしまったでしょうか」
私が訊《たず》ねますと、合田氏は、
「さあ、多分、もう何処かへ縁付いたことと思いますが、ひょっとすると、まだそのままになっているかも知れません。一つ聞いて見て上げましょう。ツイこの御近所の御徒町《おかちまち》四丁目に戸川の親類が荒物屋《あらものや》をしていますが、ひょっとすると、其処《そこ》へ貰われて行ってるかも知れません。私が手紙を附けて上げますから、誰かお弟子を使いに上げて下さい」
ということになった。
戸川さんの親類の荒物屋というのは、これもお武士《さむらい》の微禄された方で、荒物渡世をしてどうにかやって行かれているのだと合田氏の話。何はとまれ、狆が其処にいてくれれば好いと、私は国吉を使いにやった。
「もし、狆が荒物屋にいなかったら、行った先を其処で聞けば分ります。郡部へ伴れて引っ込んだか人にやったか、当りは付きます。その事をよく聞き正して見て下さい」
合田氏はいろいろ注意して下さる。
毎度国さんは御苦労だが、例の中風呂敷を持って出掛けました。近所のことなり、若い者の足で間もなく帰って来た。話を聞くと、狆は荒物屋にはいないということ。
「狆は、もういないのかね」
「ええ、狆は荒物屋にはいません。ですが、四谷《よつや》の親類の方にいるんだそうです」
「四谷にいると、本当に」
「いるんだそうです。それで荒物屋さんの御主人が、私が附手紙《つけてがみ》を四谷へ書いてあげるといって、それを貰って来ました。これを持って四谷へ行けば、狆は多分貰えるだろうということです。私は直ぐ四谷へ行こうと思いましたが、ちょっとお知らせしてからと思って帰って来ました」
国さんはこういいながら立ったままでいる。それがまだ昼前のことで、これから四谷へ行くは大変、お午餐《ひる》をたべてからというので、早昼食《はやひる》をたべて国さんは四谷へと出掛けて行きました。
国さんは午後四時頃に帰って来た。
見ると、何か嵩張《かさば》る箱のようなものを背負《しょ》って、額に汗を掻《か》いて大分|疲労《くたび》れた体《てい》である。まだ馬車もなく電車は無論のこと、人力《じんりき》に乗るなど贅沢《ぜいたく》な生計《くらし》ではないので、てくてく四谷から、何か重そうなものを背負わされて戻った。見ると四角張ったものは狆の箱で、箱ぐるみ貰って来たという訳、箱だってなかなか手を尽くしたもので、きりぎりす籠《かご》の大きいような塩梅《あんばい》に前へ竹の管《くだ》の千本格子《せんぼんごうし》が這入《はい》っている。箱を座敷へ上げて中を見ると、動物がその格子の内に寝ころんでこっちを見ておりました。
その動物を見ると私は驚きました。
というのはその権識《けんしき》が実に異《ちが》います。見ていると気味が悪い位です。その目が素晴らしく大きく鼻と額と附《く》っ着いて頬《ほお》の毛が房《ふっ》さり達筆に垂《た》れ、ドロンとした目をしてこちらを見ている所をこっちから見ると、何か一種の怪物のような気もしてどうも変なものだと思いました。
「どうもこれは妙だね」
「どうも妙なものですね」
家《うち》のものもそういって見ている。
私は近寄って箱の蓋《ふた》を明けましたが、直ぐに飛び出して来ようともしません。寝転《ねころ》んだままで悠々《ゆうゆう》としている処、どうも動物とはいえ甚だ権が高い。
「名は何んというのかね」
「種《たね》っていうん
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光雲 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング