だって教えてくれました」
国さんはいっている。
私が「種《たね》、種」って呼んで見ますと、やがて、のっそりと起き出て来ました。出たのをよく視《み》ますと、まるで葉茶屋の狆とは雲泥万里《うんでいばんり》の相違で、同じ狆とはいいながら、似ても似つかぬような風采です。のそりと畳の上を歩く音がバサリというように聞えます。バサバサと畳の音がするのです。そうして悠々然と四方《あたり》に人もおらぬといった風に構えている処は鷹揚《おうよう》といって好いか、寛大といって好いか、とにかくその迫らぬ態度は葉茶屋の狆のチョコマカと愛嬌あって活溌なのとは比べもつかぬ。もっとも、この戸川さんから来た狆は大分|年老《としと》っているので血気|旺《さか》んというのでないから、その故もあるか、私たちが狆らしい狆だと思う種類とは掛け離れたものに見えます。しかし、どっちが好《い》いとも分りません。どっちが好いとも分らないが、戸川さんから来た方は指と爪《つめ》が長くて、指と指との間に毛が一杯|生《は》えている。それが歩くとバサリという。尻尾《しっぽ》の毛は大鳥毛のようで高く巻き上がって房《ふっ》さりしており、股《もも》の前にも伴毛《ともげ》が長い、胴は短くつまっ[#「つまっ」に傍点]て四足細く指が長く歩く時はしなしなする。頭が割方《わりかた》大きく見ゆる。そうして眼は今申す通り度はずれ大きく、どんよりして涙を含んでいるように見えます。それに大きさも葉茶屋の方のよりは一廻り大きく、全体の毛がボッサリしていかにも大々として立派に見ゆる。両《ふた》つを比べて見ると人間ならば階級の違う人が並んで立っているよう、その相違は不思議な位でありました。
私は今日《こんにち》まで、葉茶屋の狆を本当に狆らしい狆だと信じていたのですが、今度の「種《たね》」が来て、その権識の高いのを見て、狆というものはこういうものか知らんと思った。それで二、三日は坐敷に放って置いていろいろその動作を眺めていましたが、ちょっと手を附ける訳に行かない。彫って見ようという気になれないのです。それに一方、葉茶屋の方は既に荒ぼりが済んでいる所でありますから、今、どっちへ取り掛かって好いか気迷いがしてどっちにも取り掛かることが出来ないのでありました。
しかし、また二、三日すると、目に馴染《なじ》んで来て、今度来た方の狆が、どうも本当の狆というもの
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