幕末維新懐古談
皇居御造営の事、鏡縁、欄間を彫ったはなし
高村光雲
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)御徒町《おかちまち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)参考|斟酌《しんしゃく》して
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ざっ[#「ざっ」に傍点]と
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御徒町《おかちまち》に転宅《ひっこ》しまして病気も概《あら》かた癒《なお》りました。
その時が明治二十年の秋……まだ本当に元の身体《からだ》には復しませんが仕事には差し閊《つか》えのないほどになった。
すると、その年の十二月、皇居御造営事務局から御用これあるにつき出頭すべしとの御差紙《おさしがみ》が参りました。何んの御用であるか、いずれ何かの御尋ねであろう、出て行けば分ろうと思って出頭しますと、皇居御造営について宮城内の御間の御装飾があるによってその御用を仰せつけられるということであったので、誠に身に取り名誉のことで、有難き仕合わせと謹《つつし》んでお受けをして退出したことでありました。
この皇居御造営の事は日本美術協会の方にも関係がある。協会の役員の一人である山高信離《やまたかのぶあきら》氏は御造営の事務局長でありました。氏は当時有数の博識家で、有職故実《ゆうそくこじつ》のことは申すまでもなく、一般美術のことに精通しておられ、自ら絵画をも描かれた位でありますから、建築内部の設計装飾等の万般について計画をしておられまして、各種にわたった技術家諸職工等を招きそれらの考えを聞き、自分の考えと参考|斟酌《しんしゃく》して概略のところをまず決定されておられたようなことであった。それで氏は私のことをも美術協会の関係上多少知っておられ、私の技術をもお認めになっておったものか、氏のお考えによって私にも御用を仰せ附けられた次第であったことと思われます。
宮城内の事は雲深く、その頃の私は拝観したことも御座いませんから分りもしませんが、その御化粧の御間に据えられる所の鏡の鏡縁《かがみぶち》の彫刻を仰せ附けられたようなわけでありました。
鏡縁は大きなもので、長さ七尺、巾四尺位、縁の太さが五寸。その周囲一面に葡萄《ぶどう》に栗鼠《りす》の模様を彫れということで御座いました。右の材料は花櫚《かりん》で、随分これは堅くて彫りにくい木であります。早速お引き受けは致したが、何しろ押し詰まってのことでその年はどうにもならず、明けて明治二十一年、新春早々から取り掛かりました。普通、庶人の注文とは異なって、宮中の御用のことで、わけて御化粧の間の御用具の中でも御鏡は尊《とうと》いもの、畏《かしこ》きあたりの御目にも留まることで、仕事の難易はとにかく事《こと》疎《おろそ》かに取り掛かるものでないから、斎戒沐浴《さいかいもくよく》をするというほどではなくとも身と心とを清浄にして早春の気持よい吉日を選んでその日から彫り初めました。
木取りは御造営の方で出来ていて、材料はチャンと彫るばかりになって私の手へ廻されておりますので、こっちは鑿《のみ》を下せば好いわけであります。そこで彫るものは葡萄に栗鼠というので、ざっ[#「ざっ」に傍点]とした下図も廻っている。まず、従来から誰でも知っている図案であるので、葡萄は分っている。栗鼠も分っているが、栗鼠は生物で、平生《ふだん》から心掛けて概略は知っているものであるが、いざ、これを手掛けるとなると、草卒《そうそつ》には参らぬので、栗鼠を一匹鳥屋から買いまして家《うち》に飼うことにして、朝夕その動作を見るために箱の中に木の枝または車などを仕掛けてそれを渡って活動するその軽快な挙動を研究的に見究《みきわ》めなど致した上で、葡萄の中に栗鼠の遊んでいる所をあしらって図案を決め、いよいよ彫り初めたのでありました。
けれども、前申し上げた通り、私の家は手狭《てぜま》であって仕事場も充分でない。広い室といって六畳しかありませんから、其所《そこ》へ七尺からの鏡縁の材料を運んで仕事をすることは出来ませんので、仕方なく、私の実家(私は高村家の養子であることは前申した通り)の菩提寺《ぼだいじ》が浅草|松葉町《まつばちょう》にあるので其寺《そこ》の坐敷を借りることにしました。寺の名は涼源寺《りょうげんじ》といって至って閑静で、お寺のことで広々としておりますから、仕事には甚だ都合が宣《よ》い。しかし宮内省からお預かりをしている品物は、木地《きじ》とはいえ、大切のものであるから、不慮のことでもあってはとなかなか心配。それに日限《ひぎ》りもあることで、毎日|其寺《そこ》に通い充分注意を致して仕事に取り掛かりました。
仕事は私一人でなく、弟子を使い、荒彫りは自分がして、仕上げは弟子にも手伝わせ、まず滞りなく仕事を終って首尾|能《よ》く掛かりの方へ納めたことでありました。出来上がったのが四月……桜の花の散る頃でありました(手伝わせた弟子には林美雲氏も山本|瑞雲《ずいうん》氏もおりました。美雲氏は既に故人となったが、後に美術学校の助教授をもしたことであって、至極穏健な作をする人であった。東雲師のお宅で年季を勤め上げ、一人前になろうという所で師匠が歿されましたので、その後は私の許《もと》に参って私の弟のようになったのであります。また山本瑞雲氏は現存で今日盛んに活動しております。この人は元萩原国吉といいましたが、後に実家の山本姓に復し号を瑞雲と改めました)。
鏡縁が納まると、今度は御欄間《おんらんま》の彫刻を仰せつかりました。
これは七宝に山鵲《さんじゃく》の飛んでいる図であった(山鵲という鳥はちょっと鵲《かささぎ》に似て、羽毛に文系があり、白冠で、赤い嘴《くちばし》、尾が白くて長い。渡り鳥の一種で、姿の上品な趣のある鳥です)。それが済むと次は同じく欄間で鉄線蓮唐草《てっせんれんからくさ》の図(鉄線蓮はよく人家にある蔓草《つるくさ》で、これも紋様などにして旧《ふる》くから使われているもので、大変趣のあるもの、葉は三葉で一葉を為《な》し、春分旧根から芽を出し、夏になって一茎に一花を開く。花の大きさは二寸余で、六弁のものも八弁のもある。色は碧《あお》か白、中心に小さな紫弁が簇《むら》がってちょっと小菊の花に似ているもの)、それが終ると、今度は小鳥に唐草を一組仰せつかった。この一組は二枚の処も四枚の所もあって、なかなか大きく手の籠《こ》んだもの。……これらはいずれも首尾よく納まりました。それから暫《しばら》くすると、今度は御学問所の欄間で蝙蝠《こうもり》を彫工会の方へ御命じになって、大勢で一つずつ彫れという命令。つまり合作であります。私は白蝠《はくふく》を一つ彫りました。
これらの彫刻は掛かりの方から下絵が出ているので、そうむずかしく意匠することも入らず、得手《えて》々々に彫刻して雲形の透かしに配置したものです。何しろ宮中のお仕事ですから謹んで落ち度のないように心掛けたことでありました。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年1月8日作成
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