自分も手間をかまわず丹念にやった仕事であるので、これならば自分のお礼の意味も満更《まんざら》ではあるまい。これがよろしかろうと思いましたので、或る日、それに熨斗《のし》を附け、病中一方ならぬ世話に預かったお礼のしるしという意を述べて、それを合田氏に贈りました。
 すると、合田氏は大変に満足した顔で、君からこうしたものを頂くことは私も心苦しいが、しかしこれは君の手になったものであり、君の心特もよく分っているので、他品とか、金銭ならばお貰いしないが、これは快く有難く貰いましょう。実は自分も日頃から、何か君に一つ拵えて頂きたいと希望しておりましたが、病後のことでもあり、いささかなりとも君に尽くした後において、こちらより物をおたのみすることは如何《いかが》かと遠慮しておった処であるが、君より進んでこれを僕に下さるとあれば、何よりのことで、甚だ心悦ばしい。と合田氏は大変によろこんでくれますので、私も日頃の念が届きやっと肩の荷を卸した気になったことであった。

 しかるに、この合田氏も貧乏では余り引けを取らぬ方で……元来、今申す通りの性格の人であるから金持ちでありようがない。それで家計の都合が悪い所から随分大事にしてあった右の白衣観音を質に入れました。これは後に私が知ったことであるが、そういうことになった。もっとも売ったのではありません。今に都合が好くなり次第受け出すつもりで合田氏は一時手離したのでありましょうがその中に合田氏は病気で亡くなりました。永眠の際も及ばずながらお世話もしたような次第で、墓は千住の大橋で誓願寺《せいがんじ》にあって、今日とても時々墓参をしている次第であるが……月日は何時《いつ》か経《た》って三十余年を過ぎ、当時の知人|朋友《ほうゆう》も亡くなって行く中、彼の観音はめぐりめぐって去年の秋のこと、或る人が箱書《はこがき》をしてくれといって持って来た作を見ると、それが合田氏に贈ったその観音でありました。

 私は、どうも、亡くなった子にでも逢ったような気持で、懐《なつ》かしくそれを眺めたことで、私の作に相違ない旨を箱書して持ち主に戻しましたが、何んでも持ち主は千五百円とかで手に入れたのだそうであります。私は余り懐かしく思ったまま、昔時を追懐し、右の観音をまたそのままに模刻して記念のために残し、只今は仏間に飾ってあるようなわけであります。
 この合田義和医師の家と現時美術学校に仏語を教授しておられる合田清氏の家とは遠縁に当るそうで、何んでも清氏の令閨《れいけい》が合田医師の姪《めい》とかに当るということを後に至って知りました。

 さて、私は、都合上|御徒町《おかちまち》へ転居したのであったが、早々大病をしたりして、この家は縁喜のよくない家になって家内《かない》のものらが嫌がりましたが、どうやらその年の秋になって病気も全快、押し詰まってから、突然皇居御造営について私もその事に当る一員として召し出される旨の命令を受けて、今まで縁喜がよくないと嫌がった家が、急に持ち直してかえって好い春を迎えたような訳で、何がどう変化するか、人間の一生の中にはまことにいろいろな移り変りのあるものと思うことであった。

 この御徒町の家は三十七坪あって、地面は借りていましたが、玄関二畳、六畳に、四畳に、台所、物置き、それに庭が少しあって、時の相場六十円で買ったのでありました。そうして一家の生計《くらし》が、どうしても三十円は掛かりました。当時、一日の手間一円を働くことは容易なことではなかったのですが、しかし五、六年以前一月の手間七円五十銭から見ると、私の生計《くらし》はずっと張っており、また手間や物価なども高くなっておりました。
 とはいえ、相当の家一軒六十円という値は今日から考えるとおかしい位のものであります。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年12月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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