家と現時美術学校に仏語を教授しておられる合田清氏の家とは遠縁に当るそうで、何んでも清氏の令閨《れいけい》が合田医師の姪《めい》とかに当るということを後に至って知りました。
さて、私は、都合上|御徒町《おかちまち》へ転居したのであったが、早々大病をしたりして、この家は縁喜のよくない家になって家内《かない》のものらが嫌がりましたが、どうやらその年の秋になって病気も全快、押し詰まってから、突然皇居御造営について私もその事に当る一員として召し出される旨の命令を受けて、今まで縁喜がよくないと嫌がった家が、急に持ち直してかえって好い春を迎えたような訳で、何がどう変化するか、人間の一生の中にはまことにいろいろな移り変りのあるものと思うことであった。
この御徒町の家は三十七坪あって、地面は借りていましたが、玄関二畳、六畳に、四畳に、台所、物置き、それに庭が少しあって、時の相場六十円で買ったのでありました。そうして一家の生計《くらし》が、どうしても三十円は掛かりました。当時、一日の手間一円を働くことは容易なことではなかったのですが、しかし五、六年以前一月の手間七円五十銭から見ると、私の生計《くらし》はずっと張っており、また手間や物価なども高くなっておりました。
とはいえ、相当の家一軒六十円という値は今日から考えるとおかしい位のものであります。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年12月22日作成
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