かと思われます。で、牙は牙、木は木とその部によって部を作る時が来ることでありましょうが、その時には自《おのず》から部長というものが必要だろうと思います。会名は牙を表わし、また木を表わす必要はない。牙も木もすべてを総括した彫刻の意を全体にいい表わす会名が命《つ》けられるならば、それは甚だ結構と思います。私は木の方であって、当席に連なっておりますのですが、既に列席を致している以上、右の主意は申し上げて置きたいのであります」
という意味のことを申し述べた。
「只今、木の方の部長ということを申されたが、木の方はどういうことになりますか」
またこういう質問が出ました。
「只今も申す如く木は私一人であるから、部長も何もあり得ることではないが、段々殖えると見るべきが至当であって、入れ物だけは今日この会の成立に際して拵えて置くが順序でないかと思います。木の人員が私一人でも、既に一人はあるのである。他に今一人あるから両人《ふたり》は既にあるのである。今日の場合は部長を欠くということにして、他日殖えた場合に部長を置いたらよろしかろうと思います」
と意見を述べた。
私のこの主張は大体において人々の了解を
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