も出来る訳で、結局、人名録が証拠になって立派に反抗するだけの材料となり、物をいうことになろうと思うのですが如何でしょう」という意味を申し述べました。なるほど、これは至極|宜《い》い案であるから、人名が多いか、些《すく》ないか、精細に調べさせて見ようと相談はたちまち一決して早速人名録作成の人に補助することにして、至急人名調査に取り掛かったのでありました。
そこで精細に調べ上げた人数を見ると、四百何十人約五百名という数である。谷中派が三百人と見て、三分の二の二百人を糾合して組合を組織したことは、百何十人かを無視したという事実が上がって来ました。人名録も出来上がって、ずらり宿所氏名の人別《にんべつ》が立派に乗っている以上、これほど確かなことはない。そこで、府の当局者が許可すべからざるものを許可したのだという抑《おさ》え所も出来たので、それでは府の掛かりをねじってやれというので、人名録を附けて意見書を府の掛かりの課へ突き出したのでした。
これには掛かりの人も一本参った。しかし、一旦、許可したのを、今さらむげ[#「むげ」に傍点]に解散させるというわけにも参らぬので、事を有耶無耶《うやむや》の中に葬ろうとして、どっちつかずの態度を取ることになった。つまり谷中派の組合をも確実に認定せず、先生側の意見書をも取り上げぬといった形になったのである。こうなると金田氏の案は立派に成功したことになって先生側の方の一同はいずれも大喜びで、もはや谷中派の組合に這入る這入らぬを間題にする必要もなくなり、同時に谷中派が組合の権能を振り廻す権利を認める必要もなくなりました。
「組合は組合で放棄《うっちゃ》って置け、彼らの書いた種が上がれば、相手にする必要はない。文句をいって来たら、人名録を突き附けて先方の落ち度を抑えてやれば好い。放棄《ほう》って置け放棄って置け」
というようなことで、先生側の意気は大いに振《ふる》ったわけでありました。
こうなって来ると、形勢が逆になって来た。技術派の方へ加担をするものがかえって多くなって、同情が高まり、旭玉山、石川光明氏等へ味方するものが簇々《ぞくぞく》と出て来ました。今までイヤイヤながら組合へ盲従していたものも脱けたり、思案しておったものは急に活路を見出したようにこっちへ附いて来るようになりましたから、谷中派の方は急に気勢が挫《くじ》け、人数が減り、看板
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