その道程《みちのり》もほぼ同じこと、恐らく修業の有様も、牙彫木彫の相違はあっても、一生懸命であったことは同じことであったと思われます。但し、石川氏は牙彫であったため、時流に投じ、早く出世をして、世の中へ出て名人の名を贏《か》ち得たので、既に明治十三年の竜池会が出来た時分、間もなくその会員となって、山高、山本、岸などいう諸先生と知り合い、美術のことを研究していられたのであった。もっとも、光明氏が抜群の技倆があってこそかかる幸運に際会するを得たのでありますが、私は、それに反し、木彫りのような時勢と逆行したものにたずさわり、世の中に遅《おく》れ、かかる会合のあることも何にも知らず、十三年から四年目に、初めて石川氏に邂逅《かいこう》して、その伝手《つて》によってようやく世間へ顔を出したような訳随分遅れていたといわねばなりません。

 その後|両人《ふたり》は毎度訪ね合っている。
 光明氏はしきりと木彫りをやって見たいことなど話され、
「ほんとに木彫りは面白いですねえ。今度の美術会には是非一つあなたの木彫りを出品して下さい。きっとそれは評判になりますよ」
など毎々私に向って勧められる。
「どうも、なかなか、まだ、そういう処までに行きませんよ。もっと修業をしなければ」
 私が答えますと、
「そんなことがあるものですか。何んでも好い。あなたの手に成ったものなら何んでも結構……是非出品して下さい」
 石川氏は熱心にいわれる。
「そう、あなたがいって下さるなら私も何んだかやって見たい気がして来ました。どんなものを製作《こしら》えましょうか」
「何んだって、あなたの好きなもので好いでしょう」
「では、何んともつかず、一つこしらえて見ましょう」
 そういって製作したのが蝦蟇仙人であったのでした。これが相当評判よろしく三等賞を貰ったようなわけで、全く光明氏の知遇によってこの縁を生じたようなわけで、それから間もなく会員になったりして、会員中の主立《おもだ》った竜池会当時の先輩は申すまでもなく、工人側でも金田兼次郎氏、旭玉山氏、島村俊明氏その他当時知名の彫刻家や、蒔絵師、金工の人たちとも知り合いましたが、その中でも石川光明氏とは特に親密で兄弟も啻《ただ》ならずというように交際しました。それで、世間では、光明氏も光が附き、私も光が附いているので、兄弟弟子ででもあるかのように、余り仲が好《い》いものですから思っていた人もありました。

 とにかく、明治十三年に生まれた竜池会というものは、その後に起った美術界のいろいろな会の母でありました。そして好い根柢《こんてい》を植え附けたのであった。
 つまり、少数の先覚者が、幕末より明治初年にかけ、日本の美術は衰退し行くにかかわらず、在来の日本古美術は、どしどし西洋人に持って行かれ、好《よ》いものを製《こしら》える人は少なくなり、日本にあるものは持って行かれ、日本の美術が空《から》になって行く有様を見てこれはこうしては置けないと気が附き一方これを救済し、一方これを奨励するということが動機となって、ついに竜池会が始まったのですが、この事はまことに日本の美術界に取っては有難いことであったのであります。
 而《しか》して、明治十七年日本美術協会が生まれてから、さらに進歩発達の度を高めて行ったのでありました。美術協会が上野に引っ越して来た時は、副会頭の河瀬秀治《かわせひではる》氏がやめ、九鬼隆一《くきりゅういち》氏がその後を継ぎました。会頭の佐野常民氏はまことに我が美術界に取っての大恩人で、人物といい、見識といい、実に得がたい方でありました。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年12月22日作成
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