しろくなった」
「しかし、どうもそれでは恐れ入るが、じゃ、あなたのいう通りにしてお茶でも沸かして待っていましょう」
 私は素直に牧氏のいう通りに従いました。牧氏は直ぐ坐を立って出て行きました。拙宅からは竹町は二丁位の所、牧氏は直ぐ其所《そこ》だから訳はないといって出て行きました。

 暫《しばら》くすると両人《ふたり》が這入《はい》って来る。ふと、私が、今一人の人の顔を見ると驚きました。その人は、医師か、詩人か、書画の先生でもあろうかと鑑定を附けた毎度自分の仕事場の前に立つ見覚えのある人であったので、牧氏が両人《ふたり》を紹介せぬ前に、もう両人は顔と顔とを見合って微笑《ほほえ》まぬわけには行かないのでした。
「あなたですか」
「ええ、どうも……」
と、互いに名乗り合いこそしてはいないが、予《かね》てから、顔は充分見知っている仲、自然にその事が、談話《はなし》の皮切りとなり、私が頭を擡《も》ち上げると、きまり悪そうに其所《そこ》を去ったことなども笑い話の中に出て、石川光明氏はいかにも人ずきの好い人。かねてから逢いたい逢いたいと思うていたのに、今日は牧氏の橋渡しで念が届いて満足と光明氏がいえば、私もまた、お作にはかねてから敬服して、どういう方であろうか、さぞ立派な人であろうと心に床《ゆか》しく思いおったのに知らぬこととて、毎度仕事場をお見舞い下された方が石川さんあなたであったとはまことに奇縁。私は本懐至極に思いますなど、逢ったその日その時から、一見旧知という言葉をそのままに打ち解け、互いに仕事の話など根こそげ話をして時の経《た》つのを知らない位でありました。

 石川氏は既に一流の大家であって、堂々門戸を張っている当時の流行《はやり》ッ児《こ》ですが、それでいて言葉使い、物腰、いかにも謙遜《けんそん》で少しも高ぶったところがない。私はいうまでもなく、まだ無名の人間、世に売れている人たちの仕事場などに比べては見る蔭《かげ》もないほどの手狭《てぜま》な処、当り前ならば、こっちから辞《ことば》を低くして訪問もすべきであるのを、気軽に此所《ここ》へわざわざ訪ねて来てくれられた人の心も嬉《うれ》しいと、私は茶など入れ、菓子などはさんで待遇《もてな》す。互いに話は尽きませんのでした。
「高村さん。私は随分前からあなたを知っていますよ。この宅へ、お出《い》でになってからのお顔|馴染《なじみ》ではないんですよ。北元町にお出での時から知っていますよ」
 光明氏は静かに話す。
「それはまたどういう訳ですね」
「あなたは、北元町の東雲師匠のお店にお出での時分、西行《さいぎょう》を彫っていたことがありましょう」
「ええ、あります。それを知っているのですか」
「私は、毎朝、毎晩、楽しみにして、あなたの仕事を店先から覗《のぞ》いて行ったものですよ。確か西行は一週間位掛かりましたね」
「そうですそうです。ちょうど七日目に彫り上げました。どうしてまたそんなことを詳しく知ってお出でなのですか」
「それはこういう訳です。私の宅はその頃下谷の松山町にありましたので、其所《そこ》から日本橋の馬喰町《ばくろうちょう》の越中屋《えっちゅうや》という木地《きじ》商(象牙の)の家へ仕事に毎日行くんでしてね。その往復毎日北元町を通るんで、つい、職業柄、お仕事の容子を覗いて見たような訳なんで……」
 光明氏はちゃんと何もかも知っている。なるほど、名人になる人は、平生《ふだん》の心掛けがまた別なものだ。職業柄とはいいながら、他人の仕事をもかく細かに注目し、朝夕立ち寄って見ては、それを楽しく感じたとは、熱心のほども推察される。この心あってこそ、脳《あたま》も腕も上達するというもの、まだまだ我々は其所までは行かない。名人上手の心掛けはまた別なものだと私は心|私《ひそ》かに石川氏の心持に敬服したことでありました。

 石川光明氏と私とは、嘉永《かえい》五年子歳の同年生まれです。私は二月、石川氏は五月生まれというから、少し私が兄である。
 私は下谷北清島町に生まれ、光明氏もやはり下谷で、北清島町からは何程《いくら》もない稲荷町の宮彫師石川家に生まれた人です(稲荷町は行徳寺《ぎょうとくじ》の稲荷と柳の稲荷と両《ふた》つあるが、光明氏は柳の稲荷の方)。父親に早く別れ、祖父の養育で、十二歳の時に根岸《ねぎし》在住の菊川という牙彫の師匠の家に弟子入りをして、十一年の年季を勤め上げ、年明けが二十三の時、それから日本橋の馬喰町の木地問屋に仕事に通い出したというのですから、その少年時代から青年へ掛けての逕路は、ほとんど私と同じであってただ私が仏師の家の弟子となり、光明氏が牙彫師の家の弟子となったという相違だけです。共に二十三歳にして年が明けてから、一方は松山町から馬喰町へ、一方は清島町から蔵前元町へ通う。
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