なじみ》ではないんですよ。北元町にお出での時から知っていますよ」
 光明氏は静かに話す。
「それはまたどういう訳ですね」
「あなたは、北元町の東雲師匠のお店にお出での時分、西行《さいぎょう》を彫っていたことがありましょう」
「ええ、あります。それを知っているのですか」
「私は、毎朝、毎晩、楽しみにして、あなたの仕事を店先から覗《のぞ》いて行ったものですよ。確か西行は一週間位掛かりましたね」
「そうですそうです。ちょうど七日目に彫り上げました。どうしてまたそんなことを詳しく知ってお出でなのですか」
「それはこういう訳です。私の宅はその頃下谷の松山町にありましたので、其所《そこ》から日本橋の馬喰町《ばくろうちょう》の越中屋《えっちゅうや》という木地《きじ》商(象牙の)の家へ仕事に毎日行くんでしてね。その往復毎日北元町を通るんで、つい、職業柄、お仕事の容子を覗いて見たような訳なんで……」
 光明氏はちゃんと何もかも知っている。なるほど、名人になる人は、平生《ふだん》の心掛けがまた別なものだ。職業柄とはいいながら、他人の仕事をもかく細かに注目し、朝夕立ち寄って見ては、それを楽しく感じたとは、熱心のほども推察される。この心あってこそ、脳《あたま》も腕も上達するというもの、まだまだ我々は其所までは行かない。名人上手の心掛けはまた別なものだと私は心|私《ひそ》かに石川氏の心持に敬服したことでありました。

 石川光明氏と私とは、嘉永《かえい》五年子歳の同年生まれです。私は二月、石川氏は五月生まれというから、少し私が兄である。
 私は下谷北清島町に生まれ、光明氏もやはり下谷で、北清島町からは何程《いくら》もない稲荷町の宮彫師石川家に生まれた人です(稲荷町は行徳寺《ぎょうとくじ》の稲荷と柳の稲荷と両《ふた》つあるが、光明氏は柳の稲荷の方)。父親に早く別れ、祖父の養育で、十二歳の時に根岸《ねぎし》在住の菊川という牙彫の師匠の家に弟子入りをして、十一年の年季を勤め上げ、年明けが二十三の時、それから日本橋の馬喰町の木地問屋に仕事に通い出したというのですから、その少年時代から青年へ掛けての逕路は、ほとんど私と同じであってただ私が仏師の家の弟子となり、光明氏が牙彫師の家の弟子となったという相違だけです。共に二十三歳にして年が明けてから、一方は松山町から馬喰町へ、一方は清島町から蔵前元町へ通う。
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