幕末維新懐古談
竜池会の起ったはなし
高村光雲
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)今日《こんにち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)学者|物識《ものし》り
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)より[#「より」に傍点]
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さて、今日《こんにち》までの話は、私の蔭《かげ》の仕事ばかりで何らこの社会とは交渉のないものであったが、これからはようやく私の生活が世間的に芽を出し掛けたことになります。すなわち自分の仕事として、その仕事が世の中に現われて来るということになる訳です。といって、まだまだようやくそれは世の中に顔を出した位のものであります。
それは、どういう事から起因したかというと明治十七年頃日本美術協会というものがあった。これが私の世の中に顔を出した所で、いわば初舞台とでもいうものであろうか。この一つの会が私というものを社会的に紹介してくれたことになるのであります。が、この事を話そうとすると、その以前に遡《さかのぼ》って美術協会というものの基を話さなければなりません。それを話しませんと顔を出した訳が分らんのです。
私は、それまでは世の中がどういう風に進んでいるのか、我が邦《くに》の美術界がどんな有様になっているのか、実の所一向知りませんのでした。また、実際そういうことを特に知ろうという気もありませんでした。ちょうどそれは第一回の博覧会があった当時、その事にまるで風馬牛《ふうばぎゅう》であったように、一向世の中のこと……世の中のことといっても世の中のことも種々《いろいろ》ありますが、今日でいえば美術界とか、芸術界とかいう方の世界のことは一切どんな風に風潮が動いているか、その方面のことは一向知らずにいたのであります。で、どういう会が出来ていて、どういう人たちが会合して、どんなことを話し合ったり研究しあったりしているかなどは、さらに知らない。ただ、自分の仕事を毎日の仕事として、てくてく克明にやっていたばかりであったのです。
ところが、明治十七年に初めて日本美術協会というものに或る一つの小品を高村光雲の名で出品しました。これがそもそもの私の世間的に自分の製作として公にした最初のことであった。今日までは全く蔭の仕事、人目には立たぬ仕事、いかに精力を振い、腕により[#「より」に傍点]をかけ
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