幕末維新懐古談
熊手を拵えて売ったはなし
高村光雲
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)熊手《くまで》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)千両|函《ばこ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)しまっ[#「しまっ」に傍点]て
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こういうことが続いていたが、或る年、大分大仕掛けに、父は熊手《くまで》を拵え出しました。
鳥の市でなくてならないあの熊手は誰でも知っている通りのもの。真ん中に俵が三俵。千両|函《ばこ》、大福帳、蕪《かぶ》、隠れ蓑《みの》、隠れ笠《がさ》、おかめの面《めん》などの宝尽くしが張子紙で出来て、それをいろいろな絵具《えのぐ》で塗り附ける。枝珊瑚などは紅の方でも際立《きわだ》ったもの、その配色の工合で生かして綺麗《きれい》に景色の好いものとなる。この方は夏の中から拵えますが、熊手になる方の竹は、市の間際にならないといけない。これは青い竹を使うので、枯れていては色が死んでおもしろくない。五寸、六寸、七寸、尺などという寸法は熊手の曲った竹一本の長さできまる。いずれも竹の先を曲げて物を掻《か》き込む形となって縁起を取るのであるが、その曲げようにも、老人の語る処によると、やはり手心《てごころ》があって、糸などを使って曲げを吊《つ》っていたり、厚ぼったかったりするのは拙手《へた》なので、糸なしで薄くしまっ[#「しまっ」に傍点]て出来たのが旨《うま》いのだなどなかなかこんなことでも老人は凝ってやったものです。
一本一本出来て数が積り、百本二百本というようになると、恐ろしく量張《かさば》って場所ふさげなものです。しかしまた数が積って狭い室一杯に出来|揃《そろ》った所は賑《にぎ》やかで悪くもないものです。そのいろいろの飾り物の中で、例のおかめの面、大根《だいこん》じめ、積み俵は三河島が本場(百姓が内職にしている)だから、そっちから仕入れる。熊手の真ん中にまず大根締めを取り附け、その上に俵を三俵または五俵真ん中に積み、その後に帆の附いた帆掛け船の形が出来て、そのまわりにいろいろな宝が積み込んであるように見せて、竹の串《くし》に刺して留めてある、ちょうど大根締めと俵とに刺さるようになるのです。そうして、金箔がぴかぴかして、帳面には大福帳とか大宝恵帳《だいほうえちょう》なぞと縁喜《えんぎ》よい字で胡粉《ごふん》の白い所へ、筆太《ふでぶと》に出し、千両函は杢目《もくめ》や金物は彩色をし、墨汁で威勢よく金千両と書くのです。
こんな風だから、相当これは資本が掛かります。なかなか葦の葉の玩具のように無雑作には参らぬ。日に増し寒さが厳しく、お酉様《とりさま》の日も近づくと、めっきり多忙《いそが》しくなるので、老人は夜業《よなべ》を始め出す。私も傍《そば》で見ている訳にいかず自然手伝うようになる。家内中、手が空《あ》いた時は老人の仕事を手伝い手伝い予定の数へ漕《こ》ぎ附けました。
当日が来る。
お酉様の境内、その界隈《かいわい》には前日から地割《じわり》小屋掛けが出来ている。平生《ふだん》は人気《ひとけ》も稀《まれ》な荒寥《こうりょう》とした野天に差し掛けの店が出来ているので、前の日の夜の十二時頃から熊手を籠長持《かごながもち》に入れて出掛けるのですが、量高《かさだか》のものだから、サシ[#「サシ」に傍点]で担《かつ》がなければなりません。その片棒を私がやって、親子《ふたり》で寿町の家を出て、入谷《いりや》田圃を抜けて担いで行く。
御承知の通り大鷲《おおとり》神社の境内は狭いので、皆無理をして店を拵える。私たちの店は、毎年店を出す黒人《くろと》が半分池の上に丸太を渡しその上に板を並べ、自分の店を拵えてその余りを、私の父が借りました。場所がよくて、割合に安いが、実に危険です。それは隣りの店の余りで、池の上に跳ね出しになっているのです。前は手欄《てすり》で、後は葭簀張《よしずば》り、大きいのから高い方へ差し、何んでも一体に景気の沸き立って見えるように趣向をする。縁起をかつぐ連中は午前一時頃から押し掛けて来る。いの一番に参詣《さんけい》して一年中の福徳を自分一人で受ける考え――朝はちょっと人が薄く、午前十時頃からまた追々雑踏するが、昼の客は割合にお人柄で、夕刻から夜に掛けてお店者《たなもの》並びに職人のわいわい連中が押して来て非常な騒ぎとなる。何んでも一年中でこの酉の市ほど甚《ひど》い雑踏はないのだから、実に無量雑多な人間が流れ込んで来る。とにかく、生馬の目でも抜こうという盛り場のことで、ぼんやりしていては飛んだ目に逢うのですが、私の父は、そういった人中《ひとなか》の商売は黒人《くろと》のことですから、万事に抜け目がなく、たとえば売り溜《だ》めの銭などは、バラで抛《なげう》って置いてある。商売用の葛籠《つづら》の蓋《ふた》を引っくり返して、その中へ銭をバラで抛《ほう》り込んで置く。そんな投げやりなことをして好《い》いのかと私は心配をして父に注意すると、
「何、これが一番だ。入れ物などに入れて置いては、際《すき》をねらって掠《さら》って行かれてしまう、こうして置けば奪《と》ろうたって奪れやしない」
と、自分の経験を話したりして、なかなか巧者なものである。師匠の店で彫り物ばかりしている私にはなかなか珍しく感じました。
さて、夜が明けて当日になると、昼間《ひるま》はなかなか声が出せない。黙って店にぼんやりしているようなことではいけないので、何んでも縁喜で、威勢がよくなくっちゃならないのですから、呼び声を立てないといけない。それがなかなか私などには出来ません。
しかし、何時《いつ》までも迷惑な顔をしておどおどしていれば何時まで経っても声は出ない。思い切ってやればやれるものでこういう処へ出れば、また自然その気になるものか、半日もやっていると、そういうことも平気になるのはおかしなものです。
当日の夜はまた一層の人出で、八時から九時頃にかけて出盛《でざか》る。今日のように社の前を電車が通ってはおりません。両方がずっと田圃で、田の畷《あぜ》を伝って、畷とも道ともつかない小逕《こみち》を無数の人影がうようよしている。田圃の中には燈火《あかり》が万燈《まんどう》のように明るく点《とも》っている。平生《ふだん》寂寥の田の中が急に賑わい盛るので、その夜景は不思議なものに見える。時候も今日のように冬に入る初めでなく、陰暦の十一月ですから、筑波颪《つくばおろし》がまともに吹いて来て震え上がるほど寒い。その寒さを何とも思わず、群衆はこね返している。商売人の方はなおさら、此所《ここ》を先途《せんど》と職を張って景気を附けているのです。
しかし、札附きの商売人になると、決して売ることを急がない。なかなか落ち付いたもので、店番の手伝いに任せ、主人はぶらり一帯の景気を見て歩き、そうして、今度の市の相場を視察している。今夜は、八寸から一尺までがよく出るとか、ちゃんと目星をつける。そうして売れる方の側のものは仕舞い込んでしまう。ちょうど、素人《しろと》のすることと反対のことをしている。そうして、売れ向きの悪い方から売って行って、それが売り切れになると、売れる方のを三本か四本位出して、蝋燭四本の物なら二本へらして薄ぐらくして置く、すると買い手の方は要求しているものが其所にあるから、値を聞く。売り手は他店にもう品切れと踏んでいるから、吹っ掛けて出る。一声負けたところで、利分は充分。それに商売がしやすいのであります。そうして売れないものは無理に売ろうとせず、二の鳥を俟《ま》ち、三の酉があればそれをも俟つという風で、決して素人のように売り急ぎをしないのだそうであります。際《きわ》どいのは、もの仕舞い際になると、蝋燭(薩摩《さつま》ろうそく)やカンテラを消して店を方附け、たった一本位出して置いて、客がつくと、それを売る。もうないのかと思うと、もう一本ある。他の客が奪うようにして買って行く。段々とそうして余分に儲けるなどなかなかその懸引《かけひき》があるものだといいます。けれど、こっちはそこまではやれない。この商売はほんの駈け出しだから、何んでもかまわず早く売りたくて仕方がなかったものでした。
私たちの店は今も申す通り、大きい店の袖にあった跳《は》ね出しの店です。この方が割方《わりかた》安くてかえって都合がよろしい。大分、もう売って行ってほとんど出盛りのテッペンと思う頃、仕事をしに入り込んでいた攫徒《すり》の連中が、ちょうど私たちの店の前で喧嘩《けんか》を始めた。これは馴《な》れ合い喧嘩というので、その混雑の中で、懐中を抜くとか、売り溜《だ》めを奪《と》ろうとかするのです。それ喧嘩だというと、大勢が崩《くず》れて、私たちの跳ね出し店の手欄《てすり》を被り、店ぐるみ葭簀張《よしずば》りを打ち抜いて、どうと背後《うしろ》まで崩れ込んで行ったものです。ところが、背後は池の半分|跳《は》ね出しだから、池の中へ群衆はひと溜まりもなく陥《お》ち込んでしまった。
私はちょっと用を足しに他《わき》へ行っていたのでしたが、帰って見ると、店は粉微塵《こなみじん》になっている。池へ落ちた群衆が溝渠鼠《どぶねずみ》のようになって這《は》い上がって、寒さに震えている。父は散らばった熊手を方附けている処でしたが、容子《ようす》を聞くと、スリが馴れ合い喧嘩をしたのだという。よく、池にも落ちず、怪我《けが》もしなかったことを私は安心しましたが、父はこんな突発的な場合にも素早く、馴れたものでそれというと、葛籠《つづら》の中の売り溜《だ》めを脇に挟《はさ》んで、池を飛び越えて向うへ立ってスリの立ち廻りを見物していたそうで、私は、いつもながら、年は老《よ》っても父の機敏なのに驚いたことであった。
こんな、中途の故障で、どうも仕方がないから、私たちは後始末をして帰ることにした。八分通りは売ったので、まあこれで引き上げようと父は帰りましたが、まだ売れ残りがあるので、私はそれを持って帰るのも業腹《ごうはら》で、私は、これを売ってから帰りますと後に残りました。
私は二十本位の熊手を担ぎ、さて、どうしたものかと考えたが、一つ吉原《よしわら》へ這入《はい》って行って売って見ようと、非常門から京町へ這入ると、一丁目二丁目で五、六本売り、江戸町の方へ行くまでに悉皆《しっかい》売り尽くしてしまいました。店の女たちが珍しいので、私にも、私にもといって買い、格子先に立ってる嫖客《きゃく》などが、では、俺等《おれたち》も買おうと買ったりして、旨くはけ[#「はけ」に傍点]てしまったので、私も大いに手軽になってよろこびました。
私は空手《からて》になってぶらぶら帰りました。
その頃は、もう、ぞろぞろと浅草一帯は酉の市の帰りの客で賑わい、大きな熊手を担いだ仕事師の連中が其所《そこ》らの飲食店へ這入って、熊手を店先に立て掛け上がったりしている。何処《どこ》の店も、大小料理店いずれも繁昌《はんじょう》で、夜透《よどお》しであった。前にいい落したが、その頃小料理屋で、駒形《こまがた》に初富士《はつふじ》とか、茶漬屋で曙《あけぼの》などいった店があってこんな時に客を呼んでいた。
私が帰ると、父は、あれからどうしたという。吉原《なか》へ這入って残った奴を皆《みんな》売りましたというと、それはえらい。俺よりは上手だなどいって大笑いしました。
都合、すべての売り上げを勘定して、二十円足らずありました。元手と手間をかけると、トントン位のものか。それでも父は大儲けをした気でよろこんでいました。
この熊手を拵えて売ったことは、そのずっと以前清島町時代に一度やったことがありましたが、私が父の仕事を手伝って一緒に働いたのはこの時の方であった。
故人になった林美雲《はやしびうん》なども出掛けて来て手伝ってくれました。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
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