んで、池を飛び越えて向うへ立ってスリの立ち廻りを見物していたそうで、私は、いつもながら、年は老《よ》っても父の機敏なのに驚いたことであった。

 こんな、中途の故障で、どうも仕方がないから、私たちは後始末をして帰ることにした。八分通りは売ったので、まあこれで引き上げようと父は帰りましたが、まだ売れ残りがあるので、私はそれを持って帰るのも業腹《ごうはら》で、私は、これを売ってから帰りますと後に残りました。

 私は二十本位の熊手を担ぎ、さて、どうしたものかと考えたが、一つ吉原《よしわら》へ這入《はい》って行って売って見ようと、非常門から京町へ這入ると、一丁目二丁目で五、六本売り、江戸町の方へ行くまでに悉皆《しっかい》売り尽くしてしまいました。店の女たちが珍しいので、私にも、私にもといって買い、格子先に立ってる嫖客《きゃく》などが、では、俺等《おれたち》も買おうと買ったりして、旨くはけ[#「はけ」に傍点]てしまったので、私も大いに手軽になってよろこびました。
 私は空手《からて》になってぶらぶら帰りました。
 その頃は、もう、ぞろぞろと浅草一帯は酉の市の帰りの客で賑わい、大きな熊手を担いだ仕事師の連中が其所《そこ》らの飲食店へ這入って、熊手を店先に立て掛け上がったりしている。何処《どこ》の店も、大小料理店いずれも繁昌《はんじょう》で、夜透《よどお》しであった。前にいい落したが、その頃小料理屋で、駒形《こまがた》に初富士《はつふじ》とか、茶漬屋で曙《あけぼの》などいった店があってこんな時に客を呼んでいた。
 私が帰ると、父は、あれからどうしたという。吉原《なか》へ這入って残った奴を皆《みんな》売りましたというと、それはえらい。俺よりは上手だなどいって大笑いしました。
 都合、すべての売り上げを勘定して、二十円足らずありました。元手と手間をかけると、トントン位のものか。それでも父は大儲けをした気でよろこんでいました。
 この熊手を拵えて売ったことは、そのずっと以前清島町時代に一度やったことがありましたが、私が父の仕事を手伝って一緒に働いたのはこの時の方であった。
 故人になった林美雲《はやしびうん》なども出掛けて来て手伝ってくれました。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
 
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