幕末維新懐古談
蘆の葉のおもちゃのはなし
高村光雲
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)何処《どこ》まで
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六|阿弥陀《あみだ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]
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暫く話を途切らしたんで、少し調子がおかしい……何処《どこ》まで話したっけ……さよう……この前の話の処でまず一段落附いたことになっていた。これからは、ずっと、私の仕事が社会的に働きかけて行こうという順序になるので、私の境遇――生活状態もしたがってまた実際的で複雑になって行くことになりますが、話の手順はかえって秩序よく進んで行くことと思う。
ところで、今日は暫くぶりであったから、無駄話を一つ二つして、それから改めてやることにしましょう。この話は堀田原の家を師匠が売ったについて、寿町へ立ち退《の》いた時代で、明治十二年の頃、父兼松が六十一、二、私が二十六、七という時、随分他愛もない話であるが、私の記憶には印象の深いものとなっている。……東京の年中行事の一つである鳥の市《いち》で熊手を売ったという話や、葦《あし》の葉の虫のおもちゃを売った話など……今日、こうして此所《ここ》に坐っておってその当時のことを考えると不思議な気がします。
私の父兼松は、もはや還暦に達した老人となったが、至極達者なもので、私が一家のことをやっているので、隠居で遊んでいてもよろしいのであるけれども、始終、何かしら自分で働くことを考え自分の小遣い位は自分で稼《かせ》いでいる、何といって取りとまったことはないが、前《ぜん》申す如く、大体器用な人で手術《てわざ》は人並みすぐれている所から、何かしら自分の工夫で小細工をやって見たい。安閑としてぶらり遊んでいることは嫌いで必ずしも自分の仕事が銭《かね》にならなくても、手と脳《あたま》とを使って自分の意匠を出して物を製《こしら》えて見ようというのである。それで孫が出来れば、孫のためにおもちゃをこしらえる。引っ越しをすれば、越した先の家の破損を繕う。籬《まがき》を結い直す。羽目《はめ》を新しくする、棚《たな》を造るとか、勝手元《かってもと》の働き都合の好いように模様を変えるとか、それはまめなもので、一家に取って重宝といってはこの上もない質《たち》の人でありました。
それに、元来、稼ぐという道は若い時から苦労をしているから充分に知っている。手術《てわざ》が持ち前で好き上手《じょうず》であるので、道楽半分、数奇《すき》半分、慾得《よくとく》ずくでなく、何か自分のこしらえたものをその時々の時候に応じ、場所に適《は》めて、売れるものなら売って見ようというのが父兼松のその頃の楽しみの一つでありましたが、それも買い手が気持よく自分の趣向をおもしろいと思って喜んで買って行けばよし、そうでなければ売る気もない。元手と利益を勘定ずくにしてやる商売ではなく隠居の道楽に、洒落《しゃれ》で何か人の気を「なるほど、これは、どうも、おもしろい。好い趣向だ」と感心させて見たいという気分で、これがこの老人に随《つ》いて廻った癖でありました。
それで、ドンなものを父は製《こしら》えるかというと、この前話した火消し人形のようなものから、いろいろ妙なものがありますが、その中で、夏向きになって来ると、種々《いろいろ》な虫の形を土で拵《こしら》えて足は針金で羽根は寒冷紗《かんれいしゃ》または適当な物で造り、色は虫その物によって彩色を施し、一見実物に見えるよう拵えるのです。その種類は蜂《はち》、蝉《せみ》、鈴虫《すずむし》、きりぎりす、赤蜻蛉《あかとんぼ》、蝶々《ちょうちょう》、バッタなどですが、ちょっと見ると、今にも這《は》い出したり、羽根をひろげて飛び出そうというように見えます。
「どうだ。本当の赤蜻蛉に見えるだろう。このバッタはどうだ。この脚の張り工合が趣向なんだ」
などいって、障子《しょうじ》の桟《さん》へなど留まらせると、本当に、赤蜻蛉とバッタが陽気の加減で出て来ているように見える。老人は得意になって、そのままぶらり何処かへ出て行ってしまう。何処へ行かれたかと思っていると、やがて帰って来られる。手に青々とした葦を持っている。何処か浅草田圃《あさくさたんぼ》の方へ行って取って来たのでしょう。
「葦を取って御出《おい》でなすったね。それをどうするのですか」
「これか、これが趣向なんだ」
老人は細工は流々《りゅうりゅう》といったような自信のある顔をして、またぽつぽつ仕事を初め出します。何をするのかと思うと、その切って来た葦の葉へ、今のバッタや赤蜻蛉などを留まらせて、と見、こう見している。
「これは、どうだ。異《おつ》だろう」
老人は葦の葉を縁先へ立てて見せる。なるほど、自然の色を持った若葦の浅緑の生々《いきいき》した葉裏などにその夏虫のとまっている所は、いかにもおもしろい。異《おつ》でもあり、妙でもあって、とても、市中の玩具屋《おもちゃや》を探して歩いてもある品でない。この妙な思い附きが一つの趣向で老人はすっかり好い気持になって、それを持って、彼岸の人出する場所、あるいは六|阿弥陀《あみだ》のような所へぶらぶらと行って見るのであります。時候はよし、四方の景色《けいしょく》はよし、木蔭《こかげ》の石灯籠《いしどうろう》の傍などに、今の玩具を置いて其所《そこ》に腰打ち掛けて一服やっている。通り掛かりの参詣《さんけい》仲間の人たちが、ふと目を附け、これは異《おつ》だ、妙だといってる中に、何んとなく好奇心にそそられて、その赤蜻蛉のを私に一本、その蝶々のを私に二本というように、つい興がって買う気になるのです。こうなると老人の得意はさぞかし、手間は相応掛かっても、元が掛からない手細工ですから、幾金《いくら》にしても儲けはある。二時間、三時間、気の向いた道を景色を眺めて散歩している間に幾金《いくら》かのお小遣いが取れるのであります。
老人は日暮れ近くになって、ぶらぶらと帰って来られる。取れた儲けの中から、お土産《みやげ》などを買って……手間と元手も実はもうそのお土産になってしまうこともあるが、それでも老人は万と儲けたような気分、「今日はなかなかおもしろかった」といって罪なく笑壺《えつぼ》に入っている所はまことに人の好いもので、私たち夫婦は、つい貰い笑いをして、
「お父さん、折角儲けたのをみんなお土産にしてしまってはお気の毒ですね。それでは商売にならないでしょう」
などいうと、
「何、先方が馬鹿に俺《おれ》の趣向をおもしろがって買ってくれるんだ。儲けなくても、それだけでも気保養だのに、こんなお土産が買えて、まだ少し位残った所などは感心じゃないか」
など、何処までもお人柄な隠居気質。こういうところは、生馬《いきうま》の目を抜くような江戸の真ん中で若い時から苦労ずくめの商売をした人のようでもなく、どうかすれば歌俳諧でもやるような塩梅《あんばい》でありました。それに、おかしいのは、老人のこの新案の葦のおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]は極《ごく》日中はいけないのでした。薄曇った日とか、朝夕位のところでないと、葦の若葉がしおれるので、ほんの瞬間の生々した気分を売り物にするという、まことに妙な玩具でありました。
老人はまた思い附くと何んでも拵えました。大山《おおやま》登山の行者《ぎょうじゃ》などはお得意のものであった。行者を白い紙で拵え、山を、小さな、芝居の岩山のようなものにして、登山のさまを見るようにこしらえました。指先が利《き》くので、一片の紙の片ッ端でも、この人の手に掛かると不思議に生きて来たのであります。結局《つまり》自分の感じたおもしろ味を、文字でなく、物の形にして、それを即興的に現わしたもので、当座の興でありましたが、まだその頃にはこうした趣味をよろこぶ人が多少ともあったものでありました。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
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