でありました。
それに、元来、稼ぐという道は若い時から苦労をしているから充分に知っている。手術《てわざ》が持ち前で好き上手《じょうず》であるので、道楽半分、数奇《すき》半分、慾得《よくとく》ずくでなく、何か自分のこしらえたものをその時々の時候に応じ、場所に適《は》めて、売れるものなら売って見ようというのが父兼松のその頃の楽しみの一つでありましたが、それも買い手が気持よく自分の趣向をおもしろいと思って喜んで買って行けばよし、そうでなければ売る気もない。元手と利益を勘定ずくにしてやる商売ではなく隠居の道楽に、洒落《しゃれ》で何か人の気を「なるほど、これは、どうも、おもしろい。好い趣向だ」と感心させて見たいという気分で、これがこの老人に随《つ》いて廻った癖でありました。
それで、ドンなものを父は製《こしら》えるかというと、この前話した火消し人形のようなものから、いろいろ妙なものがありますが、その中で、夏向きになって来ると、種々《いろいろ》な虫の形を土で拵《こしら》えて足は針金で羽根は寒冷紗《かんれいしゃ》または適当な物で造り、色は虫その物によって彩色を施し、一見実物に見えるよう拵えるのです。その種類は蜂《はち》、蝉《せみ》、鈴虫《すずむし》、きりぎりす、赤蜻蛉《あかとんぼ》、蝶々《ちょうちょう》、バッタなどですが、ちょっと見ると、今にも這《は》い出したり、羽根をひろげて飛び出そうというように見えます。
「どうだ。本当の赤蜻蛉に見えるだろう。このバッタはどうだ。この脚の張り工合が趣向なんだ」
などいって、障子《しょうじ》の桟《さん》へなど留まらせると、本当に、赤蜻蛉とバッタが陽気の加減で出て来ているように見える。老人は得意になって、そのままぶらり何処かへ出て行ってしまう。何処へ行かれたかと思っていると、やがて帰って来られる。手に青々とした葦を持っている。何処か浅草田圃《あさくさたんぼ》の方へ行って取って来たのでしょう。
「葦を取って御出《おい》でなすったね。それをどうするのですか」
「これか、これが趣向なんだ」
老人は細工は流々《りゅうりゅう》といったような自信のある顔をして、またぽつぽつ仕事を初め出します。何をするのかと思うと、その切って来た葦の葉へ、今のバッタや赤蜻蛉などを留まらせて、と見、こう見している。
「これは、どうだ。異《おつ》だろう」
老人は葦の葉を
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