幕末維新懐古談
象牙彫り全盛時代のはなし
高村光雲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)住居《すまい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)趣味|嗜好《しこう》
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 その時分の私の住居《すまい》は、下谷西町三番地(旧立花家の屋敷跡の一部)にありました。大溝渠《おおどぶ》を前にした一室を仕事場にして、其所《そこ》で二年ぶりに手入れをした道具を備え、いよいよ本職の木彫りをもって世に立つことにしたのであります。
 私が、本当に他人の手から離れ、全くの独立で木彫りを家業として始めたのはこの時からであります。されば、自然と私の心も爽々《すがすが》しく、腕もまた、鳴るように思われたが、仏師の仕事は前申す通り全く疲弊していることとて、木彫りの仕事は一向にない。注文がさらにありません。これには私も大いに困《こう》じ果てました。
 ところが、木彫りがこんなに微々として振《ふる》わぬに反して、象牙彫《ぞうげぼ》りは実に盛んになって来ました。この時分は、正に、牙彫り全盛時代といってもよろしい位、ちょうど、それは西洋人の趣味|嗜好《しこう》に投じ、横浜貿易の貿易品にそっくり適《はま》ったのでありますから、それはまことに素晴らしい勢いとなった。つまり、象牙彫りは見る通り、美しくて可愛らしく、それになかなか精巧な細工が出来て、大人《おとな》の玩弄《おもちゃ》には持って来いのように出来ているものであるから、西洋人の眼にそれが珍奇に見えて購買慾をそそられたのは道理《もっとも》のことと思われる。
 けれども、まだ、明治八、九年の頃は牙彫りの流行も微々たるもので、根附師《ねつけし》が二寸か三寸位の大きさのものを彫っていた位、もっとも材料に制限があることとて、三寸か三寸五分位の大きさが頂上で、五寸とあるのはなかなか無かった。それは、象牙木地は大部分は三味線の撥《ばち》に取って、その後の三角木地を根附師が使ったものであるからである。で、十年の博覧会に出品された象牙彫りの作品もかなりはあったが、まだまだ大きさも小さなもの、図柄なども、貿易商人の好みのままに、乗合舟《のりあいぶね》、鳥追《とりおい》、猿廻《さるまわ》しなど在来の型の通りで、中には花見帰りの男が樽《たる》の尻《しり》を叩いて躍っている図などもあったが、一般にまだ極《ごく》幼稚でありました。
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