幕末維新懐古談
鋳物の仕事をしたはなし
高村光雲

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)牛込《うしごめ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その月|晦日《みそか》の
−−

 とかくしている中、また一つ私の生活に変化が来ました。
 それは牛込《うしごめ》神楽坂《かぐらざか》の手前に軽子坂《かるこざか》という坂があるが、その坂上に鋳物《いもの》師で大島高次郎という人があって、明治十四年の博覧会に出品する作品に着手していた。
 これは銀座の三成社(鋳物会社)が金主となって大島氏に依嘱したものであるが、その大島氏と息子に勝次郎(後に如雲と号す)という人があって、まだ二十歳《はたち》前の青年であるけれども、なかなか腕の勝《すぐ》れた人で、この人が主となってその製作をやっておった。ところが、大作のこととて、なかなか大島氏父子の手だけでは十四年出品の間に合いそうもない所から、十二年の暮頃から、しきりと製作を急いで来たがどうも手助《てつだ》いを頼む人物がなかなか見当らない。そこで、父の高次郎氏が、どういう考えであったか、その助手を私に頼むことに決めたと見え、或る日、突然、私の宅へその人が訪《たず》ねて来たのである。
 高次郎氏に逢って見ると、「実は、これこれで仕事を急いでいる。是非一つ来てやって頂きたい」
との頼み、しかし、話を聞くと、先方の仕事は鋳物の方で、蝋作《ろうづく》りでやるのだという。私は木は彫るが、蝋はいじったことはない。まるで経験のない仕事であるから、とてもこれはやれない。折角ですが……と断わりますと、大島氏はなかなか承知せず、
「そんな心配は御無用だ。木彫りの出来るあなたが蝋のひねられないという道理はない。まあ、とにかく、来てやって下さい。木のやれる腕前だ。蝋は何んでもない。是非一つ引き受けておもらいしたい」
と、一本槍に頼まれて、私も実は当惑した。というのも、手練れないことを軽率にやって、物笑いになるようでは気の利《き》かぬ話と思ったからであります。けれども、大島氏は強《た》ってといってなかなか許しませんので、経験がないということも、その経験を作ることによって、智識も啓《ひら》け、腕も上達するというもの、聞けば蝋作りというものは、なかなか自由の利くもので、指でひねって形を作るのであるというが、これはかねてから心を惹かれている彼《か》の増減自在の「脂土」のことにも思い到《いた》り、手法は異《ちが》うにしても、蝋でやることも面白からん、これは大いに彫刻のたよりとなるであろう。初めての仕事なれど、何も経験である。行って見ようかと私の心は動いて来ました。
 それに勝次郎という人の仕事の上手であることをも予《かね》てから知っており、この人と一緒に仕事することは、いろいろ智識を開くことにもなろう。また仏師の仕事と異《ちが》って、鋳物の方になると、思いもよらぬ面白い仕事をするかも知れない。何も修業だ、とここに決心しまして、承知の旨を答えました。
 大島老人は大いに喜び、早速、明日《あした》から来てもらいたいというので、まるで、足元から鳥の立つような話でありました。

 さて、仕事に掛かって見ると、なるほど、彫刻の土台があることだから、出来ないことはない。蝋を取って指でひねって物の形を作る……なかなかこれは面白いと思う。二日三日と経《た》つと存外手に入って来る。
「それ見なさい。私のいった通りでしょう」
 大島老人にこにこ笑っている。
 かくて如雲氏とともに毎日仕事を励み、とうとう十四年出品の作物を鋳物に作り上げてしまいました。
 この製作品は竜王の像で、これは勝次郎氏作り、私はお供と前立ちの方を主《おも》にやったのです。そうして丸二年間大島氏の家に起臥《おきふし》して鋳金の仕事を修業したのである。
 したがって参考のため、その頃の私の給料のことを話すが、それが面白いのは、大島の老人が余計に給料を払おうというのを、私がそれを辞退して長い間押し問答をしたことを覚えている。仕事に来たその月|晦日《みそか》の夜の事、大島老人は、最初私に向って、
「さて、あなたも、いよいよ家《うち》へ来て下さることになったから給料を決めよう。一体、幾金《いくら》上げてよいか。お望みのところをいって下さい」という。私はこれまで師匠の宅へ通っている間、日給二十|匁《もんめ》ずつを貰っていたから、これまで通り、二十匁(この二十匁は三日で六十匁一両に当る)でよろしいのだが、まず一|分《ぶ》二朱も頂けば結構というと、
「今時《いまどき》の時節にそんな馬鹿なことがあるものか、一分や二分ではどうなることも出来やしない。私は一両二分差し上げる。また急なものだから時々夜業をお頼みすることがあるから、それは半人手間《はんにんでま》ということにして頂こう」
と大島老人はいう。
 私に取って一両二分などいう給料は従来の二十匁に比してどんなに結構か知れません。しかし、そんなに貰っては多過ぎますので、私は散々辞退をし押し問答の末、私から一両に決めてもらい、その代り、夜業は自分の随意ということにしました。
 この大島高次郎という人は、若い時から草鞋穿《わらじば》きで叩《たた》き上げたほどな人ですから、なかなか確《しっ》かりした人物でありました。そして能《よ》く私のことを心配をしてくれ、私もまた同氏のためには心から尽くしたので、博覧会が終《す》んでも、まだ暇が貰えず、やはり、二年越し此所《ここ》へ勤めていたのでした。

 しかるに、或る時、十四日勘定の給料を受け取り、その晩家に帰りまして、翌十五日は休日|故《ゆえ》、家にいて、ふと道具箱の小刀の抽斗《ひきだし》を開《あ》けて見ました。
 すると、驚いたことには小刀が悉皆《すっかり》赤錆《あかさび》になっております。これを見た時、私は何ともいえない慚愧《ざんき》悔恨の念が胸にこみ上げて来ました。
 私は、暫く、その錆だらけの小刀を見詰めておった。胸に「アア、これは、大変なことをしてしまった」という思いが一杯になって、自分の所業を愧《は》ずかしく感じ、孔《あな》へも入りたく思ったのである。自分は相当の給料を貰い、まず心安くその日の生計《くらし》をば立て行くことの出来るは結構なれども、そういうことのために師匠譲りの木彫りを粗略にし、二年間も小刀の手入れをせず、打《う》っ棄《ちゃ》って置いたということは何とも済まない。これはこうしてはいられない。自分は元の道に帰って木彫りを再びやらなければならん。とこう決心しますと、もう矢も楯《たて》もたまらず、直ちに大島氏の家に行って、右の趣を述べ、大島老人は物の能く分る人|故《ゆえ》、引き留めもせず、誠に御尤《ごもっとも》だといって機嫌《きげん》よく暇をもらい、家に帰って小刀を磨《と》ぎはじめたことであった。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
終わり
全1ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光雲 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング