幕末維新懐古談
実物写生ということのはなし
高村光雲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)到《いた》った

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)犬一匹|描《か》いて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あおり[#「あおり」に傍点]
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 明治八、九年頃は私も既に師匠の手を離れて仏師として一人前とはなっておりましたが、さて、一人前とは申しながら、まだ立派に世に立つに到《いた》ったとはいえない。師匠の家は出たけれども、自分の家《うち》から師匠の家に通って仕事をしておりました。
 ところが、その時分は前に話した通り仏教破壊のあおり[#「あおり」に傍点]を食って仏に関係した職業は何事によらず散々な有様でありますから、したがって仏師の仕事も火の消えたようなことになりました。この社会の傾向を見ていると、私は、どうも考えぬわけには行かぬ。師匠東雲師のように既に一家を成して東京でも一、二の仏師と知られていれば、いかに社会が変化して来ても根柢《こんてい》が固まっているから、さほどに影響を受けもしません。また、受けるにしてもそれに受け応《こた》えることも出来ますが、私たちのように、まだ一向に基礎の確定しておらぬものは、生活するということからも考えねばならぬ。仏師という職業がこのまま職業として世の中に立って行けるものか。よしまた行けるとして、従来通りの仏師でやって行って好《い》いものか、その辺のことについて考えて見るに、どうも不安でなりません。自分の職業とする仏師の仕事その物にも不安であると同時に、仏師の仕事によって糊口《ここう》して行けるか否やについても不安である。いろいろ急激に社会の事物の変遷する時代は、何事によらず、その社会に生きて行く人の上には不安な思いが襲い掛かって参るもので、私も大いに熟慮を要しなくてはならないと思ったことがあります。
 されば、段々と仏師への注文が少なくなって来る。師匠東雲師の店においても従前とはよほど仕事の数が減って参りまして、この先どうなることか心配をしている……が、ここにまた時勢の変遷につれて、いろいろな事が起って来る中に、横浜貿易というものが恐ろしい勢いで開けて来ました。それで、その貿易品が一般に流行する所から、貿易品的な置き物のようなものの注文が大分師匠の許《もと》に来るようになった(その頃は貿易といわず交易といっていた)。しかし、従前通りの手法《やりかた》で仏様を長くやっていたこと故、その習慣上貿易品向きのものを製作するとしても、どうしても仏様臭くなってしようがない。仏様を作るには仏様臭いのは仕方もないが、貿易品的のものに仏臭のあるのは面白くない。どうかしてこの仏臭を脱して写生的に新しくやって見たいものだということが私の胸に浮かんで来ました。
 もっとも、この考えは今さらのことでなく、私の年季中から既に芽差していたことで、何かにつけ心掛けてはおりましたが、いよいよ社会の要求に駆られるようになって見ると、事実その写生的に行く方のやり方を実行して見たくなったのであります。すなわち、私自身としては自分の製作の態度や方法を一変して新しくやって見ようという心を起したのであります。
 そこで、まず差し当っては、何をその研究の資料にするかというと、従来のお手本とは全く違った方面のもので、たとえば、西洋から輸入して来たいろいろの摺《す》り物、外字新聞の挿画《さしえ》のようなものや、広告類の色摺りの石版画《せきばんが》とか、またはちょっとした鉛筆画のようなもの、そういうものが外人との交際の頻繁《ひんぱん》になるにつれて所在にそれがある。それを、いろいろの機会に見附け次第、買ったり借覧したりして見ると、どうも私の脳《あたま》がそれに惹《ひ》き附けられ、また動いて来る。というのは、在来の彫刻の手本にした絵とか彫刻の手本とかいうものとはよほど異なった行き方であって、動物でも、草木、花、物品、すべてのものが真に迫って実物に近い。それはほとんど実物そっくりといってもよろしい。犬一匹|描《か》いてあってもどう見ても本物である。特にその毛並みのやり方が目に立って旨《うま》く出来ている。従来の彫刻の方でやる毛の彫り方は、まるで引ッ掻《か》いたように毛が生《は》えているという心持だけを肉の上へ持って行って現わすのであるが、西洋の絵は、毛は毛で、皮膚の上へムックリとして被《おお》いかぶさり、長い処、短い処、渦《うず》を巻いている処、波状《はじょう》になった処、撥《は》ねた処、ぴったりと引っ附《つ》いた処と、その毛並みの趣が、一々実物の趣が現わされている。それを私は見ていると、どうしてもこの西洋の絵画の行き方のように彫刻の方でも工夫をしなければいけないということを私は考えました。
 そして、そういう西洋画の行き方に彫刻の方をやるには、やはり西洋画が写生を主としたと同じように写生を確《しっ》かりやらなければならないと、こう考えました。今日から見ると、甚《はなは》だ当り前のことであるが、とにかく、私は此所《ここ》へ着眼して一意専心に写生を研究しました。ちょうど、それが画家が実物を写生すると同じように刀や鑿《のみ》をもって実物を写生したのである。毛の上に毛の重なり合い、あるいは波打ち、揺れ動く状態等緩急抑揚のある処を熟視して熱心にやりました。で、万事がこの意気であるから、動物の骨格姿勢とか、草木、果実、花などの形においてもやはり同じことで、いろいろと実物を的にして彫刻するということに苦心したのであります。
 この研究が一、二年続く中に、何時《いつ》となく従来の古い型が脱《と》れて、仏臭が去ったようなわけであって、その頃では、こういってはおかしいが、私は新しい方の先登《せんとう》であったのであります。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月発行
入力:しだひろし
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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