幕末維新懐古談
私の守り本尊のはなし
高村光雲
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)申し出《い》でました
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五体|揃《そろ》って
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さて、五体の観音は師匠の所有に帰し「まあ、よかった」と師匠とともに私は一安心しました。しかし、私にはここで一つの希望が起りました。私は、数日の後、師匠に向い、その望みを申し出《い》でました。
「師匠、あの観音五体の中で一体を私にお譲り下さいませんか。私はそれを自分の守り本尊《ほんぞん》として終生祭りたいと思うのです。もっともお譲り下さるならば、師匠がお求めになった代を私はお払いしますから」
私は思い切ってこういいました。
私がそれを熱望した心持は、最初百観音が灰にされるということを聞いて、嘆き悲しみ、懐かしみ、惜しみした心持と少しも変りはないのでありました。
こう私に望まれて見ると、師匠は五体|揃《そろ》っているのですから、何んとなく手放しにくいような容子《ようす》が見えましたが、元々私がこの事件には先鞭《せんべん》を附けている手柄もあることを師匠も充分承知していることだから、
「そうか。それは譲って上げてもよい。だが、いったい、何の観音をお前は望むんだね」
こういって師匠はその中で特に精巧に刻まれてある細金《ほそがね》の一体を取り上げ、
「これを欲しいというのかね」
といいました。
「いいえ、私のおねだりするのはそれではありません。これです」
私の撰《えら》み取ったのは、松雲元慶禅師のお作でした。
「そうか。それを欲しいのか。じゃ、譲ってやろう。お前が一生祭って置くというのなら……」
師匠は快く私の請いを容《い》れてくれました。で、私は一分二朱を現金で払った時の嬉《うれ》しさといってはありませんでした。
もうこの元慶禅師のお作のこの観音は私の所有に帰したのだと思うと、心が躍《おど》るようでした。私は喜び勇んでそれを我が家へ持って帰りました。
それから、私は、右の観音を安置して、静かにその前に正坐《すわ》りました。そして礼拝しました。多年眼に滲《し》みて忘れなかったその御像《おんぞう》は昔ながらに結構でありました。
けれども、お姿に金が附いていたためにアワヤ一大御難に逢わされようとしたことを思うと、金箔のあるのが気になりますから、いっそ、この木地《きじ》を出してしまう方が好いと思い、それから長い間水に浸《つ》けて置きました。すると、漆は皆|脱落《はが》れてしまい、膠《にかわ》ではいだ合せ目もばらばらになってしまいましたから、それを丁寧に元通りに合わせ直し、木地のままの御姿にしてしまいました。これはお手のものだから格別の手入れもなしに旨《うま》く元通りになりました。そうして、それを私の守り本尊として、祭りまして、現に今日でも私はそれを持ち続けている。
私は観音のためには、生まれて以来|今日《きょう》までいろいろの意味においてそのお扶《たす》けを冠《こうむ》っているのであるがこの観音様はあぶないところを私《わたくし》がお扶けしたのだ。これも何かの仏縁であろうと思うことである。
さて、師匠の所有の四体の観音は、その後どうなったかというに、一つは浅草の伊勢屋四郎左衛門の家(今の青地氏、昔の札差《ふださし》のあと)、一体はその頃有名だった酒問屋《さかどんや》で、新川の池喜《いけよし》へ行きました。それから、もう一体は吉原の彦太楼尾張へ行った。もう一体は何処《どこ》へ納まったか覚えておりません。
かく師匠の手に帰した観音も、日ならずして人手に渡り、ちりぢりばらばらになってしまいましたが、私の所有の松雲元慶禅師のお作は、今以て私が大事にして祭っておりますところを見ると、最初私がこの観音の灰燼《かいじん》に帰しようとする危うい所をお扶けしようとした一念が届いて、かくは私と離れがたない因縁を作っているように思い、甚だ奇異の感を深くするわけであります。
この禅師のお作は、徳川期のものではあるが、なかなか恥ずかしからぬ作であります。禅師は元来は仏師でありましたので、その道には優れた腕をもっておられ、五百羅漢製作においても多大の精進《しょうじん》を積まれ一丈六尺の釈迦牟尼仏《しゃかむにぶつ》の坐像、八尺の文殊《もんじゅ》、普賢《ふげん》の坐像、それから脇士《わきし》の阿難迦葉《あなんかしよう》の八尺の立像をも彫《きざ》まれました。なお、禅師についての話は他日別にすることと致します。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
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