っそ、この木地《きじ》を出してしまう方が好いと思い、それから長い間水に浸《つ》けて置きました。すると、漆は皆|脱落《はが》れてしまい、膠《にかわ》ではいだ合せ目もばらばらになってしまいましたから、それを丁寧に元通りに合わせ直し、木地のままの御姿にしてしまいました。これはお手のものだから格別の手入れもなしに旨《うま》く元通りになりました。そうして、それを私の守り本尊として、祭りまして、現に今日でも私はそれを持ち続けている。
私は観音のためには、生まれて以来|今日《きょう》までいろいろの意味においてそのお扶《たす》けを冠《こうむ》っているのであるがこの観音様はあぶないところを私《わたくし》がお扶けしたのだ。これも何かの仏縁であろうと思うことである。
さて、師匠の所有の四体の観音は、その後どうなったかというに、一つは浅草の伊勢屋四郎左衛門の家(今の青地氏、昔の札差《ふださし》のあと)、一体はその頃有名だった酒問屋《さかどんや》で、新川の池喜《いけよし》へ行きました。それから、もう一体は吉原の彦太楼尾張へ行った。もう一体は何処《どこ》へ納まったか覚えておりません。
かく師匠の手に帰した観音も、日ならずして人手に渡り、ちりぢりばらばらになってしまいましたが、私の所有の松雲元慶禅師のお作は、今以て私が大事にして祭っておりますところを見ると、最初私がこの観音の灰燼《かいじん》に帰しようとする危うい所をお扶けしようとした一念が届いて、かくは私と離れがたない因縁を作っているように思い、甚だ奇異の感を深くするわけであります。
この禅師のお作は、徳川期のものではあるが、なかなか恥ずかしからぬ作であります。禅師は元来は仏師でありましたので、その道には優れた腕をもっておられ、五百羅漢製作においても多大の精進《しょうじん》を積まれ一丈六尺の釈迦牟尼仏《しゃかむにぶつ》の坐像、八尺の文殊《もんじゅ》、普賢《ふげん》の坐像、それから脇士《わきし》の阿難迦葉《あなんかしよう》の八尺の立像をも彫《きざ》まれました。なお、禅師についての話は他日別にすることと致します。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
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