幕末維新懐古談
蠑螺堂百観音の成り行き
高村光雲
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)蠑螺堂《さざえどう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)本所|枕橋《まくらばし》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いじくら[#「いじくら」に傍点]れちゃ
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蠑螺堂《さざえどう》は壊《こわ》し屋が買いましたが、百観音は下金屋《したがねや》が買いました。下金屋というのは道具屋ではない。古金《ふるがね》買いです。古金買いの中でも、鍋《なべ》、釜《かま》、薬缶《やかん》などの古金を買うものと、金銀、地金《じがね》を買うものとある。後《あと》の方のがいわば高等下金屋である。これに百観音は買われました。……というのは、観音の彫刻にはいずれも精巧な塗り彩色がしてありますので、その金箔を見込んで買ったのである。単に箔だけを商売人たちは踏んでいるので、他には何んの見込みをつけているのではない。
下金屋は本所|枕橋《まくらばし》の際《きわ》、八百松《やおまつ》から右へ曲がった川添いの所にあった。その川添いの庭に、百観音のお姿は、炭俵や米俵の中に、三、四体ずつ、犇々《ひしひし》と詰め込まれ、手も足も折れたりはずれたり荒縄《あらなわ》でくくって抛《ほう》り出されてある。これは、五ツ目からこの姿のままで茶舟《ちゃぶね》に搭《の》せられ、大河《おおかわ》を遡《さかのぼ》って枕橋へ着き、下金屋の庭が荷揚げ場になっているから、直ぐ其所《そこ》へ引き揚げたものである。
そうして、彼らはこれをどうするのかというと、仏体はそのまま火を点《つ》けて焼いてしまい、残った灰をふいて、後に残存している金を取ろうというのです。今、彼らはその仲間たちと相談して、やがて仕事に取り掛かるべく、店頭で一服やっている所でした。
この妙な状態を或る人が見たのでした。その人は私の師匠東雲師を知っている人であった。話を聞くと、これこれというので、その人も随分驚いた。音に名高い本所五ツ目の羅漢寺の、あの蠑螺堂に納まっていた百観音のお姿が、所もあろうにこんな処へ縛られて来て、今にも火を点けて焼かれそうになっているのだから、驚いたも無理はありません。その人は、何んとかして、この危急な場合を好《い》い都合に運びたいものと考えたと見え、かねて知人である仏師東雲へこの話しをしたら、何んとかなろうと思ったのでしょう。その人は、吾妻橋《あずまばし》を渡って並木の方から東雲師の店(当時は駒形《こまがた》に移っていた)を差してやって来たのでした。
その日は暑い日でした。何月頃であったか、表通りの炎天を見ながら、私は店頭で仕事をしていました。其所へ一人の人が尋ねて来た。
「師匠はお宅ですかね」
「師匠は朝から山の手へ要事があって出掛けましたが……」
私がそう答えますと、その人は失望したような表情をしました。
「そうですか。じゃあ、ちょっとは帰りませんね。ああ、生憎《あいにく》だなあ……惜しいことだなあ……」
と、何か容子《ようす》ありげに嘆息しております。私はどうしたのかと思って、その来意を尋ねると、「実はこれこれで……余り見兼ねた故、此店《こちら》の師匠に知らせて上げたら、何んとかなるだろうと思い、わざわざやって来たんだが、師匠が留守とあってはどうもしようがない。これが明日《あす》、明後日《あさって》と待っていられることではないのだから、今一刻をも争うというところだからね。だが、どうも仕方がない。さようなら」
そうその人はいいながら、帰ってしまいました。
この話を聞いて困ったのは私です。
どう所置をして好いか分らない。後刻《のち》ともいわさず、今が今という速急な話……こうして困《こう》じ果てて考えている時間さえも今の人の話の容子では危《あぶ》ないほどのこと……ハテ、どうしたものかと考えた所で師匠は留守、帰りを待っている中には万事は休してしまう。これは実に困ったと真底《しんそこ》から私は困り抜きました。
しかし、困ったといって、こうして腕を拱《く》んで、阿呆《あほう》見たいな顔はしていられない。どうにかしなければならないという気が何よりもまず先立って来る。あの百観音が今焼かれようとしている。灰にされようとしている。灰にされてしまったらどうなるのだ。……あの、平生《ふだん》から眼の底に滲《し》み附いている百観音が……自分の唯一のお師匠さんだったあの彫刻が、今にも灰になろうとしている……、もう、今頃はあのお姿のどれかに火が点《つ》いているかも知れない。焼け木杭《ぼっくい》見たいになっているかも知れない……そう思うと情けないやら、懐《なつ》かしいやら、またそれがいかにも無残で、惜しいやら、私はただもうふらふらとその現場へ飛んで
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