りますが、いずれも腕揃《うでぞろ》いであって、凡作は稀《まれ》で、なかなか結構でありました。
そして、その中には、五百羅漢を彫った当羅漢寺の創建者である松雲|元慶《げんけい》禅師の観音もありましたこと故、私の修業時代は、本所の五ツ目の五百羅漢寺といえば、東京方面における唯一《ゆいつ》の修業場であって、好い参考仏が一纏《ひとまと》まりになって集まっているのでした。もっとも、五百羅漢、百観音は、いずれも元禄以降の作であって、古代な彫刻を研究するには不適当であったが、とにかく、その時代の名匠良工の作風によって、いろいろと見学の功を積むには、江戸では此寺《これ》に越した場所はありませんでした。
それで、私などは、朝から、握り飯を持って、テクテク歩きでこの羅漢寺へやって来て、種々《いろいろ》と研究をしたものであります。日が暮れると、またテクテクとやって家へ帰る。他に便利な乗り物がないから、弟子も師匠も、小僧も旦那《だんな》も、それだけは一切平等でありました。
右の如く、羅漢寺は名刹《めいさつ》でありましたが、多年の風霜のために、大破損を致している。さりながら、時代は前に述べた通り、仏さまに対しては手酷《てきび》しくやられたものであるから、さながらに仏法地に堕《お》つるという感がありました。で、このお寺を維持保存するなどは容易のことではない。部分的にちょっとした修繕をするということさえむずかしい。彼の百観音を納めてある蠑螺堂のある場所を、神葬祭場にするという評判さえあって、この霊場の運命も段々心細くなるばかり……その中、とうとう蠑螺堂は取り毀《つぶ》すことになって、壊《こわ》し屋に売ってしまいました。
ところが、この売るということが、お話しのほかで、買い手もないといった頃、その頃の堂々たる大名、旗本の家屋敷、あるいは豪商大家の寮とか別荘とかいうものでも、いざ、売り払うとなると二束三文、貰ってもしようがないと貰い手もない時節であるから、この蠑螺堂を、壊し屋が買った値段も想像されます。とにかく、その建築物の骨をば商売人が買ったが、その中に百観音が納まっている、さあ、この観音様の処分をどうしましたか。これが涙の出るようなことでありました。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
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