というのです。そこでこのお経は今浅草の浅草寺の所有になっております。
それから、この浅草寺ですが、混淆時代は三社権現が地主であったから|馬道《うまみち》へ出る東門(随身門《ずいじんもん》)には矢大臣が祭ってあった。これは神の境域であることを証している。観音の地内《じない》とすれば、こんなものは必要《いら》ないはずであります。もう一つ可笑《おか》しいことには、観音様に神馬があります。これは正《まさ》しく三社権現に属したものである(神馬は白馬で、堂に向って左の角に厩《うまや》があった。氏子のものは何か願い事があると、信者はその神馬を曳《ひ》き出し、境内の諸堂をお詣《まい》りさせ、豆をご馳走《ちそう》しお初穂《はつほ》を上げてお祓《はら》いをしたものである)。こういう風に神様の地内だか、観音様の地内だか区別がないのです。法令が出てから観音様の境内と三社様の境内とハッキリ区別が出来ましたために、諸門は観音に附属するものになって、矢大臣を取り去って二天を祭り、今日は二天門と称している。神馬も観音の地内には置くことが出来ない故、三社様の地内へ移しました。
右のような例によって見ても、神仏の混淆していたものが悉《ことごと》く区別され、神様は神様、仏様は仏様と筋を立て大変厳格になりました。これは、つまり、神社を保護して仏様の方を自然破壊するようなやり方でありましたから、さなきだに、今まで枝葉を押し拡《ひろ》げていた仏様側のいろいろなものは悉くこの際|打《ぶ》ち毀《こわ》されて行きました。経巻などは大部なものであるから、川へ流すとか、原へ持って行って焼くとかいう風で、随分結構なものが滅茶々々《めちゃめちゃ》にされました。奈良や、京都などでは特にそれが甚《ひど》かった中に、あの興福寺の塔などが二束三文で売り物に出たけれども、誰も買い手《て》がなかったというような滑稽《こっけい》な話がある位です。しかし当時は別に滑稽でも何んでもなく、時勢の急転した時代でありますから、何事につけても、こういう風で、それは自然の勢いであって、当然のこととして不思議と思うものもありませんでした。また今日でこそこういう際に、どうかしたらなど思うでしょうが当時は、誰もそれをどうする気も起らない。廃滅すべきものは物の善悪高下によらず滅茶々々になって行ったものである。これは今日ではちょっと想像に及びがたい位のも
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