幕末維新懐古談
東雲師逝去のこと
高村光雲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)相更《あいかわ》らず

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)下谷区|入谷《いりや》町

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+(「縻」の「糸」に代えて「手」)」、141−12]《さす》る
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 それからまたこういう特別な注文のほかに、他の仕事もぽつぽつあります。それらを繰り返して仏の方をも相更《あいかわ》らずやっている。明治十一年も終り、十二年となり、これといって取り立ててはなしもないが、絶えず勉強はしておりました。
 すると、十二年の夏中から師匠は脚気《かっけ》に罹《かか》りました。さして大したことはないが、どうも捗々《はかばか》しくないので一同は心配をいたしました。余談にわたりますが、師匠東雲師は、まことに道具が好きで、仏の方のことは無論であるが骨董《こっとう》的な器物は何によらず鑑識に富んでおりました。それで東京中の道具屋あさりなどすることが何より好きで、暇さえあれば外へ出て、てくてく歩いていられる。歩くことが激しいから、下駄は後《あと》の方が直ぐ減ってしまうので、師匠は工夫をして下駄の後歯《あとば》へ引き窓の戸の鉄車を仕掛けて、それを穿《は》いて歩かれたものです。知人の処になど行って庭の飛び石を歩く時にはガラガラ変な音がするには甚だ困るなど随分この下駄では滑稽《こっけい》なはなしがある位、それほど外出歩きを好かれた方であったが、脚気に罹られてからは、それも出来ず、始終、臥床《とこ》に就くではないが、無聊《ぶりょう》そうにぶらぶらしておられました。しかし、店の仕事の方には私の兄弟子政吉もいること故、手が欠けるということはなく、従前通りやっておりました。
 しかるに一夏を越して秋に這入《はい》っても、病気は段々と悪くなるばかり、一同の心配は一方ならぬわけでありました。それに華客場《とくいば》の中でも、師匠の家の内輪《うちわ》へまで這入《はい》っていろいろ師匠のためを思ってくれられた特別の華客先もありました中に、別して亀岡甚造氏の如きは非常に師匠のことをひいき[#「ひいき」に傍点]にされた方でありましたが、この方が大変に心配をして、何んとか、もう一度癒してやりたいといっておられます。
 この亀岡甚造という方は、その頃もはや年輩も六十以上の人で、当時は御用たし[#「たし」に傍点]のようなことをしておられた有福《ゆうふく》な人でありました。若い時、彼《か》のペルリの渡来時分、お台場《だいば》の工事を引き受け、産を造ったのだそうで、この亀岡氏は先代の目がねによって亀岡家へ養子になったなかなか立派な人でありました。師匠とは気心も大変合っていて、内輪のことなどまで心配をされました。また同氏は私にもなかなかよくしてくれました。で、亀岡氏はじめ、我々、皆一同師匠の病気平癒を神仏かけて祈りましたが、どうも重くなるばかりであります。医師に見せてもなかなか捗々《はかばか》しく参らず、そこで、私は先年傷寒を病んだ時に掛かった柳橋の古川という医師が、漢法医であるけれども名医であると信じていましたから、師匠の妻君へ、この人に診《み》てもらうよう話をしました。妻君も、それではと古川医師に診察を頼みますと、どうも、これは容易でない。脚気とはいっても、非常に質《たち》が悪い。気を附けねばならんという診断。医者の紋切形《もんきりがた》とは思われぬ。重大な容態は我々素人にもそう思われるようになったのであります。
 それで、弟子は四人ありますが、店の方の仕事のことがありますので、昼の中《うち》は附いておられず、奥の方では皆が附き切りになっている。師匠の家は親戚《しんせき》はない。一家内師匠をのけてはすべてが婦人で、妻君、お悦さん、お勝さん、それからおきせさんとこの四人が附き添い看護をしておられるので、私は、いろいろ師匠の病気についての看護のことに心附いたことがあっても、そう深く奥のことにまで立ち入って行くわけにも行きませんから、ただ、ひたすら、師匠の病気の少しにてもよろしくなることを祈っている次第であった。

 しかるにここに師匠の家の筋向うに眼鏡屋があって、その主人がちょうど師匠と同じような脚気に罹って寝ていました。近所ずからのこと、また同病のことで、何かと奥の人たちと往復して、平生《ふだん》よりもまた近しくなった処、眼鏡屋の妻君のいうには、私の宅でも柳橋の古川さんに掛かっておりますが、どうも、さらに験《げん》が見えません処を見ると、あのお医者は籔《やぶ》の方ではありますまいかなどいう。こちらでも、どうも、ますます重《おも》って行く処を見ると、余り上手なお医者さまとは受け取れませんなど話が合う。私は、そういう噂などチラチラ小耳に挟《はさ》む所から、或る日、改めて古川医師に師匠の容態を承ると、
「今日の処は、師匠の病気はしのぐ[#「しのぐ」に傍点]時である。直す時機はまだ来ない。ここ暫《しばら》くを通り越して、さて曙光《しょこう》を見た処で、初めて薬が利《き》くので、それから漸次快気に向うわけであって、今日の処は、拙者はそのしのぎ[#「しのぎ」に傍点]をつけている。気長に、鄭重《ていちょう》に、拙者が引き受けてやれば、万《ばん》、生命に係わるようなことはない。しかし、薬は必ず油断なく服《の》ませてくれ」
 こういう古川医師の返答。私も尤《もっとも》のことと思い、何分ともよろしくと申し、この上はこの人の丹精によって師匠の一命を取り止めるより道もないことと観念致しおった次第であった。
 ところが、ここに一つ困ったことが起った。
 それは或る御殿に勤めていたとかいうお婆さんがあって、その老婆は、ただ、※[#「てへん+(「縻」の「糸」に代えて「手」)」、141−12]《さす》るだけにて人の病気を癒すという。それを眼鏡屋にて聞き込み、右の老婆を頼んで、主人を※[#「てへん+(「縻」の「糸」に代えて「手」)」、141−14]らせた処、大きによろしいという。それを女同志のことで、こちらの奥の人たちが勧められたものか、自分たちでその気になったか、とにかく、その婆《ばば》さまに師匠を見せるということになった。私はこの話を聞くと、これはいけないと思いました。断じてこの際、そういうことをさせることは無謀の至りで、これは険呑《けんのん》至極と思いましたが、前にも申す如く、奥の婦人たちに向って強《た》って口を入れて我意を張り通すことも、とにかく、元、私が医師を世話した関係上、私としては言い兼ねもしたので、まず、やむをえず奥の人たちのいう通りに従いました。

 婆さまが来て師匠をさすりました処、師匠は加減がいくらか好いようだということ、本当に好いのか、ほんの病人の気持だけでそう思われるのか、私は半信半疑でいると、さて、さらに困ったことには、その婆さまのいうには、自分が病人を手掛けている間は、医師の薬を廃《や》めてくれということ、これは眼鏡屋の方でも同じことであった。しかし医師の薬をやめるわけには医師に対していかないが、まず、のましたつもりにして婆さまのいう通りに薬をやめさせた。二日間薬をやめたのであった。
 と、その少し前、眼鏡屋の主人がぽっくり死んでしまった。古川医師は、どうも可怪《おか》しい、不思議なこともあるものと首を傾けていると、こちらの師匠の容態が、また危機に迫ったというので、診断して見ると、これはどうも大変なことになっている。これはいけない。これは最早《もはや》扶《たす》からない。しかし、今日《こんにち》までの経過は、こう迅《はや》く迫って来べきでないが、何か、どうかしたのではないか。何らか特別の手落ちがなくてはこうなるはずはないと問い掛けられて、奥の人たちは今さら隠すわけにも行かず、実はこれこれでと右の婆さんの一条を話し、薬は二日休んだと有体《ありてい》に申しました。古川医師は、もはや、自分の匙《さじ》の用い処もないと嘆息する。一同も途方に暮れ、手の出しようもないのでありましたが、その夜十時頃、師匠東雲師はついに永眠されたのでありました。それは、明治十二年九月二十三日の午後十時、師匠は、享年五十四でありました。
 法名は、光岳院法誉東雲居士、墓は下谷区|入谷《いりや》町静蓮寺にございます。
 これより先、師匠の病《やまい》篤《あつ》しと聞き、彼の亀岡甚造氏には見舞いに来られました。この人は平生《ふだん》でも手に数珠《じゅず》を掛けている人であったが、師匠の病床に通って、じっと容態を見ておられたが、やや暫くの後、その場を去り、他《わき》へ私を招き、ただならぬ顔色にて申すには、
「幸吉さん、今日、師匠の容態を見るに、もはや、余命も今日《こんにち》限りと私は思う。とても明日までは持たれまいと思う。それで今夜はお前もその覚悟でおらねばならぬことと私は思うが、不幸にして、そういう場合に立ち至ったなら、どうか、遠慮なく、私の番頭をこちらへ招き、お前の相談相手として万事|宜《よろ》しく頼みます。それで、私は明日また出直して参るが、番頭のことは遠慮なくやって下さい」
 こういい置き帰って行かれました。私はまさかとは思いましたが、果してこの亀岡氏のいった如く、師匠はその晩不帰の客となられたのでありました。
 亀岡氏の番頭さんというのは、師匠の家の隣りの袖蔵の側の霧路《ろじ》に亀岡氏の別邸があって、其所《そこ》に留守居のようにして住まっていた人でありました。で、師匠の気息《いき》を引き取られると、直ぐにその番頭さんが駈《か》け附けて参り、間もなく報《しら》せによって彼《か》の高橋定次郎氏も駈けつけて参られた。奥の人たちはただ泣くばかりで、私たちは途方に暮れたことであった。

 ここで、順序としてちょっと私の兄弟子|三枝松政吉《みえまつまさきち》氏のことをいわねばならぬことになります。この人は下総《しもうさ》の松戸《まつど》の先の馬橋《まばし》村という所の者で、私より六ツほど年長、やっぱり年季を勤め上げて、師匠との関係はまことに深いのでありましたが、どういうものか、師弟の情誼《じょうぎ》はまことに薄いのでありました。それはどういう訳であったか、つまり気が合わぬとか、性《しょう》が合わぬとかいうのであろう。何かにつけて師匠が右といえば左といい、西といえば東というという工合で、どうも師弟の仲が好くないのでありました。
 政吉という人は、別に深く底意地《そこいじ》の悪いというほどの人ではないが、妙に大事の場合などになるとその時をはずしていなくなったりして、毎度、急《いそ》がしい時などに困らされたものでありますが、そういう時にも師匠は寛大な人ゆえ、あれは、ああいう男だと深く咎《とが》めはされませんでしたが、今度の師匠の逝去《せいきょ》の際においても、やっぱり政吉は店におらず、故郷の馬橋村へ帰っておったのでありますから、早速これへ報知《しらせ》をやりました。
 政吉は帰って来ましたが、こういう場合に充分立ち働いてくれることよりも、何かと余計に事件をこしらえて、どうも私の考えとぴったり調子が合わないような風で、私も甚だやりにくいように思考《かんが》えたことでありました。つまりは、政吉の方では、師匠と私とが大変に気心が合い、師匠は何事につけても、幸吉々々と弟弟子の私をまず先に立て仕事もさせれば、可愛がりもしましたばかりでなく、徴兵の一件などにも力瘤《ちからこぶ》を入れて尽力されたことなどが、彼に取っては面白く思わなかったのも人間としては無理ならぬことと思われます。それで政吉の仕向けは、また私には身に染まず、私の仕向けは彼には面白くなかったことと思われます。このことは、まことに如何《いかん》ともしがたいことで、師匠没後早々にもこうした感情を少しでも互いに懐《いだ》いたことは悲しむべきことでありました。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   
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