を引き取られると、直ぐにその番頭さんが駈《か》け附けて参り、間もなく報《しら》せによって彼《か》の高橋定次郎氏も駈けつけて参られた。奥の人たちはただ泣くばかりで、私たちは途方に暮れたことであった。
ここで、順序としてちょっと私の兄弟子|三枝松政吉《みえまつまさきち》氏のことをいわねばならぬことになります。この人は下総《しもうさ》の松戸《まつど》の先の馬橋《まばし》村という所の者で、私より六ツほど年長、やっぱり年季を勤め上げて、師匠との関係はまことに深いのでありましたが、どういうものか、師弟の情誼《じょうぎ》はまことに薄いのでありました。それはどういう訳であったか、つまり気が合わぬとか、性《しょう》が合わぬとかいうのであろう。何かにつけて師匠が右といえば左といい、西といえば東というという工合で、どうも師弟の仲が好くないのでありました。
政吉という人は、別に深く底意地《そこいじ》の悪いというほどの人ではないが、妙に大事の場合などになるとその時をはずしていなくなったりして、毎度、急《いそ》がしい時などに困らされたものでありますが、そういう時にも師匠は寛大な人ゆえ、あれは、ああいう男だと深く咎《とが》めはされませんでしたが、今度の師匠の逝去《せいきょ》の際においても、やっぱり政吉は店におらず、故郷の馬橋村へ帰っておったのでありますから、早速これへ報知《しらせ》をやりました。
政吉は帰って来ましたが、こういう場合に充分立ち働いてくれることよりも、何かと余計に事件をこしらえて、どうも私の考えとぴったり調子が合わないような風で、私も甚だやりにくいように思考《かんが》えたことでありました。つまりは、政吉の方では、師匠と私とが大変に気心が合い、師匠は何事につけても、幸吉々々と弟弟子の私をまず先に立て仕事もさせれば、可愛がりもしましたばかりでなく、徴兵の一件などにも力瘤《ちからこぶ》を入れて尽力されたことなどが、彼に取っては面白く思わなかったのも人間としては無理ならぬことと思われます。それで政吉の仕向けは、また私には身に染まず、私の仕向けは彼には面白くなかったことと思われます。このことは、まことに如何《いかん》ともしがたいことで、師匠没後早々にもこうした感情を少しでも互いに懐《いだ》いたことは悲しむべきことでありました。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光雲 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング