》って行く処を見ると、余り上手なお医者さまとは受け取れませんなど話が合う。私は、そういう噂などチラチラ小耳に挟《はさ》む所から、或る日、改めて古川医師に師匠の容態を承ると、
「今日の処は、師匠の病気はしのぐ[#「しのぐ」に傍点]時である。直す時機はまだ来ない。ここ暫《しばら》くを通り越して、さて曙光《しょこう》を見た処で、初めて薬が利《き》くので、それから漸次快気に向うわけであって、今日の処は、拙者はそのしのぎ[#「しのぎ」に傍点]をつけている。気長に、鄭重《ていちょう》に、拙者が引き受けてやれば、万《ばん》、生命に係わるようなことはない。しかし、薬は必ず油断なく服《の》ませてくれ」
こういう古川医師の返答。私も尤《もっとも》のことと思い、何分ともよろしくと申し、この上はこの人の丹精によって師匠の一命を取り止めるより道もないことと観念致しおった次第であった。
ところが、ここに一つ困ったことが起った。
それは或る御殿に勤めていたとかいうお婆さんがあって、その老婆は、ただ、※[#「てへん+(「縻」の「糸」に代えて「手」)」、141−12]《さす》るだけにて人の病気を癒すという。それを眼鏡屋にて聞き込み、右の老婆を頼んで、主人を※[#「てへん+(「縻」の「糸」に代えて「手」)」、141−14]らせた処、大きによろしいという。それを女同志のことで、こちらの奥の人たちが勧められたものか、自分たちでその気になったか、とにかく、その婆《ばば》さまに師匠を見せるということになった。私はこの話を聞くと、これはいけないと思いました。断じてこの際、そういうことをさせることは無謀の至りで、これは険呑《けんのん》至極と思いましたが、前にも申す如く、奥の婦人たちに向って強《た》って口を入れて我意を張り通すことも、とにかく、元、私が医師を世話した関係上、私としては言い兼ねもしたので、まず、やむをえず奥の人たちのいう通りに従いました。
婆さまが来て師匠をさすりました処、師匠は加減がいくらか好いようだということ、本当に好いのか、ほんの病人の気持だけでそう思われるのか、私は半信半疑でいると、さて、さらに困ったことには、その婆さまのいうには、自分が病人を手掛けている間は、医師の薬を廃《や》めてくれということ、これは眼鏡屋の方でも同じことであった。しかし医師の薬をやめるわけには医師に対していかないが、まず、のましたつもりにして婆さまのいう通りに薬をやめさせた。二日間薬をやめたのであった。
と、その少し前、眼鏡屋の主人がぽっくり死んでしまった。古川医師は、どうも可怪《おか》しい、不思議なこともあるものと首を傾けていると、こちらの師匠の容態が、また危機に迫ったというので、診断して見ると、これはどうも大変なことになっている。これはいけない。これは最早《もはや》扶《たす》からない。しかし、今日《こんにち》までの経過は、こう迅《はや》く迫って来べきでないが、何か、どうかしたのではないか。何らか特別の手落ちがなくてはこうなるはずはないと問い掛けられて、奥の人たちは今さら隠すわけにも行かず、実はこれこれでと右の婆さんの一条を話し、薬は二日休んだと有体《ありてい》に申しました。古川医師は、もはや、自分の匙《さじ》の用い処もないと嘆息する。一同も途方に暮れ、手の出しようもないのでありましたが、その夜十時頃、師匠東雲師はついに永眠されたのでありました。それは、明治十二年九月二十三日の午後十時、師匠は、享年五十四でありました。
法名は、光岳院法誉東雲居士、墓は下谷区|入谷《いりや》町静蓮寺にございます。
これより先、師匠の病《やまい》篤《あつ》しと聞き、彼の亀岡甚造氏には見舞いに来られました。この人は平生《ふだん》でも手に数珠《じゅず》を掛けている人であったが、師匠の病床に通って、じっと容態を見ておられたが、やや暫くの後、その場を去り、他《わき》へ私を招き、ただならぬ顔色にて申すには、
「幸吉さん、今日、師匠の容態を見るに、もはや、余命も今日《こんにち》限りと私は思う。とても明日までは持たれまいと思う。それで今夜はお前もその覚悟でおらねばならぬことと私は思うが、不幸にして、そういう場合に立ち至ったなら、どうか、遠慮なく、私の番頭をこちらへ招き、お前の相談相手として万事|宜《よろ》しく頼みます。それで、私は明日また出直して参るが、番頭のことは遠慮なくやって下さい」
こういい置き帰って行かれました。私はまさかとは思いましたが、果してこの亀岡氏のいった如く、師匠はその晩不帰の客となられたのでありました。
亀岡氏の番頭さんというのは、師匠の家の隣りの袖蔵の側の霧路《ろじ》に亀岡氏の別邸があって、其所《そこ》に留守居のようにして住まっていた人でありました。で、師匠の気息《いき》
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