す……」
と訳が分らんからいいますと、
「何をやったって、大したことをやったじゃありませんか。君の観音は竜紋賞を得たのですよ」
「そうですか。その竜紋賞というのはどういう賞なのですね」
など、私はさすがに自分のことの話であるから聞いたりする。岡田の次男は予《かね》てから、隣りずからのことで、私が白衣観音を製作していたことなどを知っており、師匠の代をやっていた種を知っていることだから、私の手柄のように褒《ほ》めそやしている。そして、今日の新聞に(今の号外のようなもの)その事が載っているが、賞牌の一番が竜紋賞で、二番目が鳳紋《ほうもん》賞、三番目が花紋《かもん》賞というのです。君の観音は一番の賞牌ですよ、など物語る。私は岡田のいうことばかりでは信がおけないから、やがて蔵前へ出掛けて行くと、師匠は帰っておられた。
「今日《こんにち》、賞牌をお貰いなすったそうですね」
 私が訊《き》きますと、
「ふむ。竜紋賞というのを貰って来た。竜紋というのが一番好いのだそうだ」
と、師匠はいっていられるが、別段その事については気にも留めておられぬような様子であるから、私もそれ切りで家へ帰って来ました。
 翌日、私は師匠の家で、例《いつも》の通り仕事をしている。その時分は仕事場は店でなく、二階が仕事場になっていて、表二階の方が私、奥二階が兄弟子の政吉の仕事場になっておって、皆々仕事をしていると、表通りをその頃の『読売』が声高々と読んで通るのを聞くともなく聞くと、「当所蔵前にて、高村東雲の作白衣観音が勧業博覧会において竜紋賞を得たり」と大声で読んでおりますので、一同はそれに耳を澄ますというようなわけでありました。それに師匠の家の隣家遠州屋という外療《げりょう》道具商でも外療器械を出品し、それが鳳紋賞を得たので、一町内から二軒並んで名誉のことだと、町内を行きつ戻りつ『読売』は読んで歩いては、師匠の家の前では特に立ち留まってやっております。その頃は事件のあった時には善悪ともにその当事者の家の前で特に声を張ってやったもので、蔵前では例の高橋お伝《でん》の事件などやかましかったものですが、これはまず名誉のことだというので騒ぎましたから、自然、そういうことが町内の人々、また一般にも噂《うわさ》高くなりましたのでした。
 十年の博覧会も目出たく閉会になりましたが、最初博覧会というものが何んのことであるか一切分らなかった市民一般も、これで、まず博覧会のどんなものかを知りましたと同時に、また出品人の中でも、訳が分らなくなって、面倒がったり、困ったりしたものも、大きに了解を得、「なるほど、博覧会というものは、好い工合のものだ」など大いに讃辞を呈するというような結果を生じました。というのは、当時、政府もいろいろ意を用いたものと見えて、政府から出品者に対して補助があったのでした。七十円の売価のものに対しては約三分の一位の補助金が出た上、閉会後、入場料総計算の剰余金を出品人に割り戻したので、出品高に応じて十円か十五円位を各自《てんで》に下げ渡しました。
 こんなことで、まず博覧会の評判もよろしく、そういうことなら、もっと高価なものを出品すればよかった。自家《うち》のものは余り安過ぎたなど、私の師匠なども後で申された位でありました。万事こんな訳で、十年の博覧会も一段落ついたことでありました。
 それから、今の出品の白衣観音でありますが、それは、開会当時はそのままであったが、閉会後間もなく横浜商人の西洋人が師匠の宅へ右の観音を買いに来て、定価七十円で話がきまり、或る日師匠がそれを持って横浜の商館へ行かれましたが、この時はちょうど東京横浜間の汽車が開通して早々のことで、師匠は初めて汽車に乗ったので、帰って来られてから、「どうも汽車ってものは恐ろしく迅《はや》いものだ。まるで飛ぶようだ。電信柱はとんで来るように見え、砂利《じゃり》は縞《しま》に見える」など胆《きも》をつぶして話されました。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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