あったが、一時牛肉屋になっていたので随分|甚《ひど》く荒らしてあった。これが売り物に出たのを師匠が買い取ったのであるが、その頃の売り買いが四百円であったとはいかに家屋の値段が安かったかということが分ります。地面は浅草|茅町《かやちょう》の大隅という人のものであった。師匠の手に渡ると、造作を仕直《しなお》し充分に手入れを致しましたが、これらの費用一切を精算して七百円で上がりました。当時江戸の仏師の店としてはなかなか立派なものでありました。
私は毎日弁当をもって北清島町からこの蔵前の家へ通っておった。道程《みちのり》がかなりにあることで、雨や雪の降る時は草鞋穿《わらじば》きなどで通うこともある。朝は早く、夕方は手元の見えなくなるまで仕事をして、それからてくてく家に帰り、夜食を済まし、一服する間もなく又候《またぞろ》夜なべに取り掛かるという始末であった。これというもとにかく仕事に精を出さないでは、一日の手間二十五銭では一家四人暮しの世帯《しょたい》を張っていては、よし父には父の取り前もあるとはいっても、老人の事で私の心がどうも不安であるから、決まっている手間の上に夜業をして余分にいくばく
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