幕末維新懐古談
家内を貰った頃のはなし
高村光雲
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)大分《だいぶ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)性情|伎倆《ぎりょう》ともに
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)むげ[#「むげ」に傍点]に
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私の年季が明けると同時に、師匠東雲師はまず私の配偶者のことについて心配をしておられました。もっとも年の明ける前から心掛けておったようです。これは親たちも感じていたことでありましょう。母もその頃は大分《だいぶ》弱っておりましたので、相当なものがあれば、早く身を固める方がよいと思っておったことと思われます。
しかし、この方のことは私は至って暢気《のんき》で、能《よ》く考えて見るほどの気もありませんでした。というは、両親が揃《そろ》っていて、その上に家内《かない》を持つとなると、責任が三人になる。その上四人五人になることと思い、只今の自分の境遇として、経済上、それだけの責任を負うことは大分荷が重い。で、今の所、もう三、四年も働いて、いささか目鼻が明き、技倆《ぎりょう》も今一段進歩した時分、配偶者のことなど考えて見ても決して遅くはないと思っていたのであった。それに当時の自分では、本当に、自分としても、まだ自分の技倆が分らぬ。他人の中へ出て、いよいよ一本立ちとなった場合、どういう結果になるものか、どうか、まだ、今日の場合、浮々《うきうき》と配偶者のことなどに係わっていることは出来ないという考えであったのでした。
けれども、師匠は私がどう考えているかは頓着《とんちゃく》もなく、いろいろ相当と思うような人を見つけて来たり、時には師匠の家へそうした人を置いたりしたこともあった。が、私は今申す通りだからさらに顧みず、師匠の志を無にしておった。
徴兵のことも方附《かたつ》き、配偶者の話がしきりに師匠や師匠の妻君《さいくん》の口から出ますけれども、いずれも私は承知をしません。私は心の中で、とても、今の身で、うっかりした所から妻など貰えはしない。自分のような九尺二間のあばら家《や》へ相応の家から来てくれてがあろうとも思わず、よしまた、あると仮定して上《うわ》っ冠《かぶ》りするのはなお嫌《いや》。といって、つまらない権兵衛《ごんべえ》太郎兵衛《たろうべえ》の娘を妻にはこれも嫌なり。第一、母の面倒を見て手助けとなることが一番の大事な役目であるから、その注文にはまったものが、其所《そこ》らにあろうとも思えず、また自分の取り前も考え、境遇を考えなどすると、全く配偶者のことなど脳中に置くがものはなかったのであった。
ところが、その中《うち》に、ふと、一つの話があった。江戸彫刻師の随一人といわれた彼《か》の高橋鳳雲の息子に高橋定次郎《たかはしていじろう》という人があって(この人は当時は研師《とぎし》であった。後《のち》に至って私はこの人と始終往復して死んだ後のことまで世話をした)、その妹にお清という婦人があった。師匠はこの婦人をどうかと私に相談をしました。高橋家は彫刻師としては名家であり、定次郎氏は私とは年来の知己で、性情|伎倆《ぎりょう》ともに尊敬している人である。その人の妹娘というのであるから、私もむげ[#「むげ」に傍点]に嫌というわけにも行かない。が、前申す通り境遇上、まだ妻を娶《めと》るに好都合という時機へも来ていないのであるから、私は生返辞《なまへんじ》をしていた。定次郎氏の家は神田|富山《とみやま》町にあって、私も折々同氏を訪問し、妹の人とも顔は見知っている。器量も気立ても好《よ》かりそうだなど自分も考え、明らさまに断わりをいうわけにも行かず、有耶無耶《うやむや》の間に日が経《た》っております中に、その娘の人は、計らず、ふとした病気で亡くなってしまいました。
その年は暮れ、明けて明治八年、私は二十四となる。
半年ばかり、一時結婚談も中絶していましたが、またその話が持ち上がる。同時に、私として、どうも、家内を迎えなくてはならないようなことになって来ました。
これは今まで、大分弱っておられた母が、ドッと臥床《とこ》に就《つ》くというほどではないが、大変に気息《いき》切れがして、狭い家の中を掃くのさえ、中腰になって、せいせいといい、よほど苦しいような塩梅《あんばい》である。私は、どうも、これはいけないと思い、何んとかせんければと心を痛めました。まず、何よりも滋養分を沢山差し上げるがよろしいと思い、その頃、厩橋側《うまやばしそば》に富士屋という肉屋があって、其所《そこ》の牛肉が上等だというので、時々|牝牛《めうし》の好いのを一斤ずつ買って母へ持って行って呈《あ》げました。その頃、私は師匠の家に寝泊まりしていた。当時は肉の佳《よ》いのは牝牛といったものです。ロースだのヒレーだのということは知りません。母は悴《せがれ》の心尽くしですから、魚もきらいな人がこれだけは喜んで食べ、味噌《みそ》や醤油《しょうゆ》につけなどして貯《たくわ》えて食べたりしました。けれども、医師《いしゃ》にもかけましたが、やっぱり加減はよろしき方には向わず、段々大儀が増すばかり故、ついに私も意を決し、これは母のために面倒を見るものが必要であると考えて来ました。ところで、母の手助けをするには、女中《じょちゅう》を置いても事足ることではあるが、女中といってもお大層であり、また親身《しんみ》になって母に尽くすには、他人任せでは安心が出来ず、やっぱり、いっそ、これは家内を貰い、それに一任した方が一番確かであろうという考えから、私はついに家内の必要を感じ、今度は自分から妻を持とうと考え出したのでありました。
ここで、話が八重《やえ》になって少しごたごたしますが、一通り順序を話します。
養母の住居である堀田原《ほったわら》の家には義母お悦さんが住んでいて、時々私は其所へ帰っていた。ところで、このお悦さんの妹が前述のお勝さん、そのまた妹におきせさん(東雲師の末の妹)という人があって、小舟町一丁目の穀問屋《ごくといや》金谷善蔵《かなやぜんぞう》という人の妻となっている。夫婦に子がないので、善蔵の兄に当る杉の森の稲荷地内(人形町《にんぎょうちょう》の先)に当時呉服の中買いをしていた金谷浅吉という人の娘お若というのを引き取って養女にしました。
これはお若の父も亡くなり、間もなく母も世を去って頼《たよ》りなき孤児《みなしご》となったので、引き取り養女としたのであった(お若は金谷善蔵夫婦からは姪《めい》に当る)。
しかるに、金谷善蔵がまた病気になったが、家は穀問屋で、御本丸へ出入りなどあり、なかなか手広《てびろ》にやってはいたが、こうした町家の常で、店は手一杯《ていっぱい》広がっていて、充分気楽に寝て保養をする場所がないので、妻のおきせさんが心配をして、堀田原にいる姉のお悦さんの許《もと》へ来て、
「姉さん、これこれの都合ゆえ、どうか、こちらは人少なで広いから、良人《うち》の保養のために一室借して下さいな」
という訳で、姉妹のことで、お悦さんが早速承知をする。善蔵夫婦がその家へ移って来て、保養をすることになったのです。
私は自分の養家のことですから、時々帰る。おきせさんが感心に良人の看病をしている。私も気の毒に思い、世話というほどのこともしないが何かと心を附けて上げました。それを病中の善蔵さんが大変によろこんで、私を何より頼りとしている。その中《うち》ついに善蔵さんは病|重《おも》り、気息《いき》を引き取る際《きわ》になったが、その際、病人はいろいろと世話になったことを謝し、なお、この上、自分の死後を頼むというのであるらしいが、もはや最後の際でありますから、何をいわれるか、確《しか》とは言葉も聞き取れませんが、何しろ、自分の亡き後のことなど私へたのむということであることだけは分る。妻のおきせさんも附き添い、いずれも涙の中に、病人は繰り返し私に頼む頼むと、いいおりますので、私も、病人の心を察し、快く、畏《かしこ》まりました。御心配のないようにといい慰めている中に、ついに病人はそのまま気息を引き取ってしまいました。
それで、おきせさんは未亡人になり、養女お若は血縁の叔父《おじ》(すなわち餐父)に逝《ゆ》かれ、まことに心細いこととなりました。しかし相当遺産もあり、また里方(東雲師の家)もありますから、未亡人になっても困ることもないが、女の手一つでは穀屋を続けて行くことも出来ないので、店を仕舞いました。
そこで、何んだか、おきせさんは中途半ぱな身になっているので、養女お若の遣《や》り場がないような有様になっている。それで東雲師は、俺の家へお若を伴《つ》れて来て置け、何んとか世話をしてやろうなどいっていられるのを私は知っておりましたが、何んとなく、こうした境遇に落ちて来たお若の身の上が気の毒に思われてなりませんでした。
さて、私は、自分の境遇を考えると、前述のような羽目《はめ》になっている。どうしても、この際、家内を貰わなければならない都合になっている。といって上《うわ》ッ冠《かぶ》りで、妻の身内《みうち》の方から何かと助けてもらうような状態になることなどは好ましくない。今の自分の境遇相当、自分にもさして懸隔《けじめ》がなく、そして気立ての確《しっ》かりした、苦労に耐え得るほどの婦人があれば、それこそ、今が今といっても、家内にしても差しつかえがないと思っているところへ、ちょうど、此所《ここ》にお若という気の毒な境遇に立っている婦人を見出したのであった。その娘は、今、何処《どこ》といって行く所がなくて困っている。さて、自分は親が二人、まだ全く一本立ちというには至っておらぬ。しかも母は病気で、家とてもまた貧しい。こういう処へ嫁に来るには、この娘ならばちょうど好くはないか。相当苦労もしていれば、貧乏世帯を張っても、また病人の姑《しゅうとめ》に対しても相当に旨《うま》くやり切って行くかも知れない。どうもあの娘ならば、それも出来そうである――とこう私は思い立ったのであった。
しかし、自分はそうは思っても、先方の考えはどうであるか、さっぱり分らぬ。ただ、どうも、よさそうに思われることは、お互いに何もないこと、……無財産であることが第一面倒でないから、持つとすれば自分の妻にはこの婦人がよかろうと心を定《き》めました。これは誰から勧められたのでもなく、全く自分の発案《ほつあん》であった。
そこで私はまずこの考えを母に話しました。
すると、母もよろこび、この縁を纏《まと》めたいという。さて、そうするとなれば、お若は、やっぱり師匠の気息《いき》の掛かっているものであるから、師匠にも一応相談をしなければならないが、そこを何んとなく、母から師匠に、母だけの考えとしてお若を貰いたい旨を話してもらうようにたのみました。これは、そうする方が穏当でよかったからでありました。
或る日、母が病中ながら、師匠の家へ出掛け、右の一件を話をすると、師匠は、これはといって大喜び。実は、お若のことはいろいろ心配をしておったが、そこまではちょっと気が廻らなかった。燈台元暗しとはこの事だなど、師匠はこちらからの申し込みを意外と感じてよろこんで、もし幸吉が貰ってくれる段になれば、これに越したことはないが、しかし、幸吉がお若で承知をしてくれるであろうか。元々、私は、この組み合わせは問題にしていなかったのだが……お袋さんだけの考えとあっては、幸吉の承諾がどうも危ぶまれる――など師匠の挨拶《あいさつ》。ところが、元来、当人の幸吉が承知の上で、自分で書いた筋でありますから、これほど確かなことはないので、母も、幸吉も万《ばん》異存はございますまいといって、大喜びで帰って参りました。
話は早く、早速この縁談は纏まりました。
条件は、家が貧乏であること、母親が病人であること、この二つを充分承知の上、よくやってもらいたいというのであった。娘の方で、これに不足をいう境遇ではないことはもちろんのことでありました。
そこで
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