何んでもない爺《じい》さま婆《ばあ》さまが、思い掛けなく、金持の息子の養子親となって仕合わせをしたなどいう話があって、これを「徴兵養子」と称《とな》えたものです。毎年この徴兵令のことは打ち続いて行われるのだそうで、国家のため、さらに忌み嫌うべきことではないが、師匠の考えでは、幸吉がこれから三年の兵役を受けることになると、今が正に大事な所、これから一修業という矢先へ、剣付鉄砲《けんつきでっぽう》を肩にして調練に三ヶ年の長の月日をやられては、第一技術の進歩を挫《くじ》き、折角のこれまでの修業も後戻《あともど》りする。親たちの心配もさぞかし。これは如何《どう》してもその抜け道を利用して何んとかこの場を切り抜けて始末をせんければならないと師匠東雲師が先に立って、いろいろ苦心をされ知り合いのうちにこんなことを引き受けて奔走する人があって、その人に相談をすると、次男なら仮りの親を立てれば好い。誰か仮りの親になる人がないかということであった。そこで師匠は直ぐに思い付き、
「それは格好な人がある。私の姉|悦《えつ》が、今日まで独身にて私の家にいる。それに一軒持たして、幸吉を養子に、同時に戸主にしては如何《いかが》でしょう」
というと、その人は、それが好《よ》かろう、しかし、日限が迫っているから、大急ぎという。で、師匠は右の趣を姉お悦に話すと、もちろん承知で、早速、堀田原に、かねてから師匠が立ち退《の》きの用心の家を一軒持っていた其家《それ》へ引き移ることにしたのであった。この事につき万事その人が始末を附けてくれました。

 堀田原の家は二間《ふたま》あって、物置きが広い。お悦さんが籍を移し、私が養子となり、今まで中島幸吉であった私が高村幸吉となった訳であります。私が高村姓を名乗るようになったのは全く徴兵よけ[#「よけ」に傍点]のためであったので、これで一切始末が附いて、私は兵隊にならずに終《す》んだのでありました。今から考えるとこれはあまり良い事ではないようです。
 右の如く、万事都合よく行ったので、師匠は、広小路の万年屋の隣りの花屋という料理屋に骨を折ってもらった彼《か》の人を招いてお礼に夜食のふるまいをしました。私も少し預けてあった金銭もありましたので、それを当夜の費用に充《あ》てるよう師匠に申しましたが、師匠は自分ですべてを支払いました。当夜の勘定その他すべてで十五円位掛かっ
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