、その光に、わたしの東雲《とううん》の雲の字を下に附けて光雲としたがよろしかろう。やっぱり幸吉のコウ[#「コウ」に傍点]にも通《かよ》っているから……」
と申されました。
 この事は私も不断から、そうも考えたり、また、その考えを師匠にも話したことなどあったのでしたが、今日この場で、師匠は改めて、私に光雲の号を許してくれられてかくいい渡されたのでありました。私は無論のこと、母も大いによろこび、お礼を申し述べ、その日は母と一緒に、十一年ぶりで我家に帰って父にもその由を委《くわ》しく話しました。父も非常に喜びました。
 しかるに人情というものはおかしなもので、年季が明けて一旦|我家《わがや》に帰っては来ましたが、元来、十二歳から十一年間、師匠の家におり、ほとんど内の者同様にされ、我が家のように思っておったこととて、私の心は生みの親よりもかえって師匠になずんでおります。それに家《うち》に帰っても、父の商売は違っておって、何となく私の気持が自分の家に落ち附かぬ。一日師匠の家におりませんと、どうも工合が悪いような気持であります。それで早速、師匠の家へ出掛けて行きますと、師匠は、これから先どうする考えかという。私は、自分の心持を話しますと、師匠はお前が相更《あいかわ》らず家に来てくれるなら何より好都合だとのこと、私に取ってはなおさらのことですから、早速翌日から参る旨を答えますと、親御《おやご》たちの考えもあろうから、差しつかえなければ来てくれとの事に親たちも異存なく、再び私は師匠の家に寝泊まりして従前通り仕事することになりました。
 しかし、もはや、私も年季明けの身であれば、師匠も年季中のもの同様に私を取り扱うことは出来ぬ。そこで、私の手間《てま》のことについて相談がありましたが、一日に一|分《ぶ》(今の二十五銭)、一月三十日の時は七円五十銭、三十一日の時は七円七十五銭の手間を師匠から貰《もら》うことになりました。私も満足でありました。当時立派な下職としても一分が相当、年季明け早々の私に一日一分が貰えるかどうかと内心でも考えていたことであったが、師匠が私に対しての取り扱い方が立派な下職並みにしてくれられたのでありました。当時仏師の手間は随分安い方で、一日一分は上等の職人でありました。
 右の事など父に話しますと、
「それは結構である。我々はこのままでどうやらやって行けるから、お前はお前で随意に彫刻をやれ」
との事で、万事私の都合はよろしく相更《あいかわ》らず師匠の家で仕事をしておりました。
 そこで私は自分も、もはや年季中の者ではなく、多少手間賃を貰うようになったこと故、相当両親のことも考えねばならぬと思い、その一月の手間七円五十銭の中から半額は親の許《もと》にやり、半分は貯蓄して何かの時の用意にすることにしました。手元にあれば無駄遣いをするから、それを師匠に預けることにした。当時はまだ銀行のこともよく分らず、郵便貯金などいうことはさらにありませんから、師匠に預けるのが一番確かでした。諸色《しょしき》の安い時のことであるから、一分という額は、一日分親子四人位で、どうにかやって行けたものであります。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
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