幕末維新懐古談
年季あけ前後のはなし
高村光雲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)今日《こんにち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)茂木|醤油《しょうゆ》問屋

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)コウ[#「コウ」に傍点]
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 さて、今日《こんにち》から考えて見ても、当時私の身に取って、いろいろな意味において幸福であったと思うことは、師匠東雲師が、まことに良《よ》い華客場《とくいば》を持っていられたということであります。
 たとえば、この前お話したように、札差《ふださし》の中では、代地の十一屋、天王橋の和泉屋喜兵衛、伊勢屋四郎左衛門など、大商人では日本橋大伝馬町の勝田という荒物商(これは鼠の話の件《くだり》で私が師匠の命で使いに参った家)、山村仁兵衛という小舟町の砂糖問屋、同所堀留大伝(砂糖問屋)、新川新堀の酒問屋、吉原《よしわら》では彦太楼尾張、佐野槌、芸人では五代目菊五郎、市川小団次、九蔵といった団蔵《だんぞう》、それから田舎の方では野田の茂木|醤油《しょうゆ》問屋など、いずれも上華客《じょうとくい》の方でありました。
 武家の方は割合少なくて、町家の方が多かった。これらの人々の注文はいずれも数寄《すき》に任せた贅沢《ぜいたく》なものでありますから、師匠自ら製作するのを見ていても私に取っては一方ならぬ研究となる。また手伝うとしたらなおさらのこと、力一杯、腕一杯に丹念に製作するので、幾金《いくら》で仕上げなければならないなどいうきまりもなく、充分に材料を撰み、日数を掛けてやったものであります。したがって、それに附属する塗り物、金具類に至っても上等なものを使うこと故、その方へも自然私の目が行き届く。これはまことに師匠のお蔭で、今日考えても私には幸福なことでありました。また、名あるお寺の仕事もしましたが、これらは一層吟味|穿鑿《せんさく》がやかましいので、師匠が苦心する所を実地に見て、非常に身のためとなった。それに当時は私も専《もっぱ》ら師匠の仕事を手伝い、また自分が悉皆《すっかり》任されてやったといっても好《よ》いものもあって、自分の腕にも脳《あたま》にも少なからずためになったものでありました。
 かくてちょうど私の年齢は二十三歳になり、その春の三月十日にお約束通り年季を勤め上げて年明けとなりました。すなわち明治七年の三月十日で文久三年の三月十日に師匠へ弟子入りをしてから正に丸十一年で(礼奉公が一年)年明けすなわち今日の卒業をしたのでありました。
 で、師匠も大きにこれを喜んでくれられ、当日は赤飯を炊《た》き、肴《さかな》を買って私のために祝ってくれられ、私の親たちをも招かれました。その時父兼松は都合あって参りませんでしたが、母が参り、師匠の前で御馳走になりました。その時師匠は改めて私に向い、将来について一つの訓戒をお話しであった。
「まず、とにかく、お前も十一年というものは、無事に勤めた。さて、これよりは一本立ちで独立することとなれば、また万事につけて趣が異《ちが》って来る。それに附けていうことは、何よりも気を許してはならんということである。年季が明けたからといって、俺《おれ》はもう一人前の彫刻師となったと思うてはいかぬ。今日まではまず彫刻一通りの順序を習い覚えたと思え。これからは古人の名作なり、また新しい今日の名人上手の人たちのものについて充分研究を致し、自分の思う所によっていろいろと工夫し、そうして自分の作をせねばならぬ。それにつけて、将来技術家として世に立つには少時《しばらく》も心を油断してはならぬ。油断は大敵で、油断をすれば退歩をする。また慢心してはならん。心が驕《おご》れば必ず技術は上達せぬ。反対に下がる。されば、心を締め気を許さず、謙《へりくだ》って勉強をすれば、仕事は段々と上がって行く。また、自分が彫刻を覚え、一人前になったからといって、それで好いとはいわれぬ。自分が一家を為《な》せば、また弟子をも丹精して、種子《たね》を蒔《ま》いて、自分の道を伝える所の候補者をこしらえよ。そして、立派な人物を自分の後に残すことをも考えなくてはならぬ。お前の身の上についてはさらにいうこともないが、これだけは技術のために特に話し置く」
 こう東雲師は諄々《じゅんじゅん》と私に向って申されました。私は、いかにも御もっとものお話|故《ゆえ》、必ず師匠のお言葉を守って今後とも勉強致します旨を答えました。
 すると、師匠は、至極満足の体でいられたが、さらに言葉を継ぎ、
「お前の名前のことについてであるが、今後はお前も一人前となることゆえ、名前が幸吉《こうきち》ではいけない。彫刻師として彫刻の号を附けねばならぬ。ついては、お前の幼名が光蔵《みつぞう》というから
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