幕末維新懐古談
遊芸には縁のなかったはなし
高村光雲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)終《す》んで

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)若者|故《ゆえ》

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(例)つき[#「つき」に傍点]
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 上野の戦争が終《す》んで後私が十八、九のことであったか。徳川家に属した方の武家などは急に生活の道を失い、ちりぢりばらばらになって、いろいろな身惨《みじめ》な話などを聞きました。でも、町家の方はそうでもなく、やっぱり、夏が来れば店先へ椽台《えんだい》などを出し、涼みがてらにのんきな浮世話しなどしたもの……師匠は仕事の方はなかなかやかましかったが、気質《きだて》は至って楽天的で、物に拘泥《こうでい》しない人であり、正直、素樸《そぼく》で、上下に隔てなく、弟子たちに対しても、家内同様、友達同様のような口の利き方で、それは好人物でありました。
 或る晩、家中、店先の涼み台で、大河《おおかわ》から吹く風を納《い》れて、種々無駄話をしていました折から、師匠東雲師は、私に向い、
「幸吉、お前も仕事ばかりに精出しているのは好《い》いが、何か一つ遊芸といったようなものを稽古《けいこ》して見たらどうだい。俺は鳳雲師匠の傍《そば》にいて、やっぱり彫り物をするほかには何一つこれといって坐興になるようなことを覚えもしなかったが、人間は、何か一つ、義太夫とか、常磐津《ときわず》とか、乃至《ないし》は歌沢《うたざわ》のようなものでも、一つ位は覚えているのも悪くないものだぜ。今の中《うち》はこれでも好《よ》いが、年を老《と》ってから全くの無芸でも変テコなものだよ。私などもいろいろの宴会なぞの席で芸なしで困ることが度々《たびたび》ある」
などいい出され、それから師匠は、仕事ばかりに熱中するは結構なれども、そればかりでは彫刻でもやろうというものには、頭が固くなるともいえる。それで、何か気晴らしの緩和剤として、遊芸をやって見よ。お前の性質ならば間違いもあるまいから、など至極打ち解けたお言葉に、私も十八、九の青年のこととて心動き、何か一つ自分もやって見ようかな、という気持になった。
 しかし、私は声を出して歌を唄《うた》う方のことは、親から厳しく止められている。これは例の富本《とみもと》一件で、腹に滲《し》み込んでいることであるから、声の方の芸事は問題ではないが、声を出さない方の芸事ならば、師匠の申さるる通り、やって見ても差しつかえもなかろうということを考えました。そこで私は偶然思い附いたことがあったので、これは旨い考えだと思いました。
 その頃、師匠の家は駒形(今の鰌屋の真向う)にあって表通り、裏は駒形河岸、河岸の家の尻と表通りの家の尻とが相接していて其所《そこ》に長屋の総井戸が、ちょうど師匠の家の台所口にある。隣家は津田という小児科の医者、その隣りが舟大工《ふなだいく》、その隣りが空屋《あきや》であったが、近頃其所へ越して来た母娘《おやこ》の人があった。これは徳川の扶持を離れた武家出の人で、母娘ともに人柄であったが、その娘の方が踊りの師匠をこの家へ来てから始めている。私がふと思い附いたというのはこれで、此所《ここ》へ踊りの稽古に行って見ようかと思い立ったのでありました。
 しかし、私は、今日まで、そういうことなど考えて見たことのない生初心《きうぶ》な若者|故《ゆえ》、いざ行くとなると気が差してなかなか行き渋る。が、或る晩、晩飯を済まし、裏口から、酒の切手を手土産《てみやげ》にして思い切って出掛けて行った。何んだか冷汗を掻《か》く思いで敷居を跨《また》ぎ、御免下さいといったものである。すると、応対に出たのが母親の人で、武家出のこととて、芝居にでもあるような塩梅《あんばい》で甚だつき[#「つき」に傍点]が悪い。
「何か御用でお出《い》でですか」
と、いったようなことで、ちょっと挨拶《あいさつ》に困ったが、実は踊りの稽古をしてもらいたいので出ました、と自分が直ぐ表通りの仏師屋の弟子であることを話すと、なるほど、お見掛けしたお顔だが、お見それして失礼です。しかし、こうしたお稽古はお宅のお師匠さんのお許しがなくては、後でまた面倒が起りますと、申し訳がありませんから、などなかなか固苦しい。私は師匠から勧められ許しを得ている旨を答えると、
「それでは、まあ、よろしいでしょうが、こういうことはむやみと誰でもが遊ばすことでもないから……」など物堅く、やがて、一応、娘のその踊りの師匠という人に引き合わされなどしてから、
「まあ、お遊びのつもりで、一晩、二晩は御覧なすってお出でなさい、今、お弟子の若い人が稽古をしますから」
と話している処へ、若い男の弟子が来て、そろそろ稽古が始まることになった。
 私は部屋の隅の方へチョコナンと正坐《すわ》りどんなことをするかと見ておりますと、やがて、お袋さんが地《じ》を弾《ひ》き出すと、その若い男の弟子が立って踊り出した。娘のお師匠さんが扇子で手拍子を取って、何んとか声を掛けると、若い男は変な腰つき手つきをして一生懸命に踊っていたが、その状態の変テコなことといっては実に歯が浮き、見ていても顔から火が出るよう……笑止といって好《い》いか、馬鹿々々しいといって好いか、とても顔を上げて正面《まとも》に見られた図ではありません。
 私は、飛んだ処へ軽はずみに飛び込んで、飛んだことをしたと、後悔の念やら、慚愧《ざんき》の冷汗やら、散々なことでありましたが、それにつけても思うには、男と生まれて、こんな馬鹿気《ばかげ》た真似《まね》の出来るものではない。一足飛びに上手《じょうず》になって、初手《しょて》から立派に踊りが出来ればとにかく、こんなことを毎晩見せられたり、やがては自分もこんな腰附き手附きをして変梃《へんてこ》極まる仕草をしなければならんとは、とても我慢の出来るわけのものではない。こんなことで時間を費やす位なら、夜業《よなべ》でもした方がよほど増しだ、と思い出すと、もう、とても大儀《たいぎ》で、其所へ坐っていることが出来ず、とうとう中途で、挨拶もせず、こそこそとその部屋《へや》を逃げ出して帰って来て、ホッとしたことがありました。
 それから、翌朝、裏の井戸へ顔を洗いに行くにも、そのお袋さんが出ては来ないかと心配で、松どんに水を汲《く》んでもらって井戸端へ出られないなど散々気を揉《も》みましたが、先方では、何か私に対して粗怱《そそう》でもあったかなど物固い人たちとて気にし、どういう訳で中途で帰られたか、心配をしてお袋さんが、師匠の家へ申し訳に来るやら、師匠の妻君がいいわけをするやら、師匠はまた私に、揶揄《からかい》半分に、一遍切りで逃げて帰るなぞ笑うやら、まことに馬鹿々々しいことであった。
 要するに、踊りなどいうことは、真面目《まじめ》にいうと、その性に合わなかったものと見える。その頃おい、この母娘《おやこ》のように、武士の家庭のものが生計《たずき》のために職を求め、いろいろおかしい話、気の毒なはなしなど数々ありました。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
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終わり
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