七、八人|榧寺《かやでら》に陣取っている。異様の風体をしたものが右往左往しているという有様でした。新徴組は市中取り締りとはいうものの官軍だか、賊軍だか分らず、武士の食い詰めものの集団で、余り評判はよくないということであった。
ですから、何事も無政府状態で、市民一般財産生命の危険|夥《おびただ》しく、師匠の家の近辺なども、官軍であるか、彰義隊か分りませんが、所々火を放って行きなどしたもので、しかし雨天続きのため物にならず、燃え上がったのは人々見附け次第消しましたが、不用心|極《きわ》まることでした。師匠の家なども我々は畳を上げ、道具を方附け、いざといえば何処《どこ》かへ立ち退《の》く算段……天候は悪く、びしょびしょ雨で、春というのに寒さは酷《きび》しい。師匠の家では、万一を気遣い、日本橋|小舟町《こふなちょう》の金屋善蔵《かなやぜんぞう》というのへ、妻君と子供だけは預けようということになり、私が妻君の伴《とも》をして立ち退きましたが、浅草見附へ行くと、番兵がいて門は閉《し》まって通ることが出来ない。一々、人調べをしてから、犬潜《いぬくぐ》りから通しているので、私たちも改められて潜り抜けたが、何んだか陰気な不気味なことでありました。
とにかく、上野の戦争といっても、私が目撃したことは右の通り位のもので、戦争の実況などは分りはしませんが、後年知ったことで、当時|御成街道《おなりかいどう》を真正面から官兵を指揮して黒門口を攻撃したのは西郷従道《さいごうつぐみち》さんであったといいます。これは私が先年大西郷の銅像を製作した際、松方侯《まつかたこう》の晩餐《ばんさん》に招かれて行きましたが、その席に大山《おおやま》、樺山《かばやま》、西郷など薩州出身の大官連が出席しておられ、食卓に着きいろいろの話の中、当時のことを語られているのを聞いていると、お国|訛《なま》りのこととて、能《よ》くは聞き取れませんが、おいどんが、どうとか、西郷従道侯の物語りに、御成街道から進撃した由を承りました。
先刻話した群衆の分捕り問題は、後日に到ってやかましくなり厳しい調査があるので、坊さんの袈裟を子供の帯などにくけて使っていたものはその筋へ上げられました。で、いろいろなものがはき[#「はき」に傍点]出され、往来へ金襴《きんらん》の袈裟、種々の仏具などが棄《す》ててあったのを見ました。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
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