たが、何んだか陰気な不気味なことでありました。
 とにかく、上野の戦争といっても、私が目撃したことは右の通り位のもので、戦争の実況などは分りはしませんが、後年知ったことで、当時|御成街道《おなりかいどう》を真正面から官兵を指揮して黒門口を攻撃したのは西郷従道《さいごうつぐみち》さんであったといいます。これは私が先年大西郷の銅像を製作した際、松方侯《まつかたこう》の晩餐《ばんさん》に招かれて行きましたが、その席に大山《おおやま》、樺山《かばやま》、西郷など薩州出身の大官連が出席しておられ、食卓に着きいろいろの話の中、当時のことを語られているのを聞いていると、お国|訛《なま》りのこととて、能《よ》くは聞き取れませんが、おいどんが、どうとか、西郷従道侯の物語りに、御成街道から進撃した由を承りました。
 先刻話した群衆の分捕り問題は、後日に到ってやかましくなり厳しい調査があるので、坊さんの袈裟を子供の帯などにくけて使っていたものはその筋へ上げられました。で、いろいろなものがはき[#「はき」に傍点]出され、往来へ金襴《きんらん》の袈裟、種々の仏具などが棄《す》ててあったのを見ました。



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